三位一体説
出典: Jinkawiki
「三位」とは、 父、子、聖霊の3つを指す。これら3つが一体であり、かつ3つの間に上下はないというのが、三位一体の教義である。キリスト教は一神教だが、伝統的なキリスト者のほとんどが信じる神には、「父」(世界を創造し、統治する役割)、「子」(人間を救う役割)、「聖霊」(人を導く役割)の3つの位格(ペルソナ)があるという。「本質においては、1つだが、位格においては3つ」という教え方。
「三位一体」教義の成立
そもそも、「三位一体」の教理そのものも最初からあったわけではない。三位一体という言葉は、2世紀後半に西方教会の教父テルトゥリアヌス(160頃~220以降)によって初めて使われた。テルトゥリアヌスは「キリストは肉となった。これは愚かであるがゆえに信じ得る」(「キリストの肉について」第5章)と述べたことでも知られている。
聖書の中に、三位一体について直接に書いてある箇所があるわけではない。新約聖書には、
「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ28:19)
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが・・・」(第2コリント13:13)
といった記述は見られるが、これら三者の関係については、明確ではない。三位一体の教義は、キリスト者の間で長い年月の激しい論争を経て成立してきたものである。
旧約聖書の中では、神は自らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っている。ところが、イエスが十字架にかけられて死んだ後、「イエスは神だった」という教えが生まれる。また、新約聖書には、イエスが神を父と呼んだことや聖霊に関する記述も見られ、それらを矛盾なく説明する必要が出てきた。
父、子、聖霊に関しては、さまざまな説明が可能である。伝統的なキリスト教においては、父と子と聖霊は「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」であるとみなす「内在的三位一体」論を教義として採択しています。しかし、「父のみが神であり、子や聖霊は神ではない」といった解釈もできる。今日、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)などはこの立場を取っている。また、「父、子、聖霊の3つは全く別個の存在であるが、3者は目的を同じくしている(三位同位)」とすることもできる。モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)はこの立場を取っている。
三位一体の教義が確立されるまでは、さまざまな解釈が互いに競い合っていたといえる。313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコンスタンティヌス帝は、教義の分裂がローマ帝国の混乱を招くことを懸念して、教義を統一する必要性があると考えた。彼は、325年にニケーア公会議を招集して、イエスを「神と同質」とみなすアタナシウス派を正統とし、イエスを「神に最も近い人間(神とは異質)」とするアリウス派を異端とした。
しかし、論争はこれで決着したわけではなく、正統派の同質説とアリウス派の分派が唱えた同類説(「生まれざる父なる神と生まれし子なる神とは、同類だが、同質ではない」とする説)との間では、長い間論争が続きました。テオドシウス帝は、同質説と同類説との論争に終止符を打つべく、381年にコンスタンティノポリス公会議を招集して、「作られざる、同質なる、ともに永遠なる三位一体」という教義を打ち出した。
ところが、これ以降も論争は続き、「子なる神として神そのものであるキリストが、一体どのように同時に人間であり得るか」という点が問題となった。まず、アポリナリウス(315頃~390頃)が「魂の代りにロゴスが入った人間がキリストである」と主張したが、「それではキリストは完全な人間とはいえないではないか」という反論にあい、後に異端とされた。
アポリナリウスの説に反対したのは、ネストリウス(382頃~451頃)だった。彼は、神性と人性とは混同するものではなく、共存しているのだと説いた。また、その立場からマリアを「神の母」とすることに反対し、「キリストの母」と呼ぶべきだと唱えた。
こうしたネストリウスの説に反対したのは、アレクサンドリアのキュリウス(?~444)だった。彼は「ネストリウスの立場では、キリストに2つの人格があることになってしまい、2人のキリストを認めることになる」と批判したのである。
論争は延々と続き、431年のエフェソス公会議においてネストリウス派は異端とされた。さらに、451年のカルケドン公会議では、「イエスには人性が消えて神性のみがある」とするエウテュケスの神性単性説が異端として退けられ、「キリストのペルソナ(位格)は1つであり、さらに、神性と人性とを完全に備えつつ、両者は混同していない」ことが確認された。