上杉鷹山(治憲)

出典: Jinkawiki

目次

生涯

 鷹山は、日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の二男として、宝暦元年(1751)7月20日江戸に於いて生れた。母は黒田甲斐守長貞のむすめ春姫で、米沢藩第四代藩主上杉綱憲の末娘豊姫の孫にあたる。幼名は松三郎、後直松と改めた。

 宝暦10年(1760)6月27日に、第八代藩主重定のむすめ幸姫に配して、重定の養子とした。28日に直丸勝興と改め、8月19日、上杉家の桜田邸に移った。明和元年(1764)12月15日初めて将軍家治に謁し、明和3年(1766)7月18日殿上で元服し、従四位下、弾正大弼に叙任され、将軍の諱一字を賜って、治憲と称した。明和4年(1767)4月24日家督し、12月16日、侍従に任じられた。

 天明5年(1785)2月7日隠居して、11日に越前守と改めた。天明7年(1787)8月江戸に赴き実父秋月種美の病気を見舞った。9月15日将軍家斎よりその国事に勤労したことを褒められ、老中をして羽織三領を賜った。

 享和2年(1802)11月18日、総髪して鷹山と改めた。文政5年(1822)3月12日米沢で逝去した。年72。法名は元徳院殿法印権大僧都文心で、御廟に葬った。


藩政改革

 鷹山は、14才の時から細井平洲に師事し、講義を聞いて大いに賢君名主の知識を磨き、武館を設けて師90人を選び、武術の練習を奨励し興譲館を設けて藩学に意を用うるなど文武両道に振興をはかった。

 当時窮乏のどん底にあった藩財政の立て直しを計り、藩政の改革も実施した。すなわち質素勤倹を励行し、産業の興隆、荒地の開墾につとめ、特に養蚕を奨励し、染色、機織り等には指導者を呼び、米沢織を興した。その他製塩、製紙、製陶等各種の産業に意を用い、一方百姓救恤、救荒救民の法を講じ、特に明和8年(1771)堕胎殺児禁止の令を出し、寛政8年(1796)には他藩から移住した百姓を歓迎して、反対に他領への移住は禁じ、専ら人口の増加をはかった。当時米沢藩では男子に比し、女子の数がすこぶる減少していたので、鷹山はこれを憂え、越後から女子を移住させて藩内の男子に配し、貧困のため結婚のできない者には金を与え、又5人以上の子供のある家には金を与えて扶養する等、大いに結婚及び出産の充実をはかった。ために藩内行政は刷新され、士気の充実、官紀の振粛見るべきものがあり、徳川時代一代の名君と称された。

 鷹山の施政ぶりは、自ら身を以って範を示し、特に籍田の礼を行って自ら鋤耕し、老臣以下にも倣わせた。寛政8年(1796)に、師細井平洲を米沢に招聘した事蹟は天下の美談として、戦前、小学校の修身教科書にも取り入れられ「上杉治憲敬師郊迎跡」として、国の史跡に指定されている。また、鷹山は、松岬神社、関根羽黒神社に祀られ、明治41年9月には従三位を追贈された。


逸話

 アメリカ合衆国大統領第35代ジョン・F・ケネディが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げたとして、話題になった事がある。ケネディが鷹山について発言した際には、日本人から「Yozanとは誰か」と質問が出たとも言われる。鷹山の知名度や人気が上昇した背景には、米国大統領が知っている有名人を日本人が知らなかった、という驚愕の事実が背景にあると言われる。


参考・引用

米沢観光物産協会  http://yonezawa.info/

『上杉鷹山 上』 童門冬二  学陽書房

『上杉鷹山 下』 童門冬二  学陽書房


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