両替商
出典: Jinkawiki
江戸時代において金融の主体となり、主な金融を業務として扱ったのは札差、両替商、質屋などであり、その中でも両替商は様々な役割を果たした。両替商は、主に三貨間(金、銀、銭)の両替や秤量を商売とし、また大阪や江戸の本両替をはじめとする有力な両替商は、公金の出納や、手形の振り出し、支払い、為替、貸し付けなどの業務を合わせて行い、幕府や藩の財政を支えた存在であった。
両替商の生まれ
全国的に通用する同じ規格の金・銀の貨幣は、徳川家康が慶長5年(1600年)から金座・銀座によって大量に作らせた慶長金銀が初めとされ、金座は江戸と京都におかれ、銀座は最初に伏見・駿府におかれ、後々に京都と江戸におかれ、丁銀や豆板銀などの秤量貨幣を開発した。また、寛永期に江戸と近江坂本に作られた銭座は、後に全国に設けられ、膨大な数の銅銭・鉄銭などが鋳造され、こうして17世紀中期までに金・銀・銅の三貨は全国に普及し、商品流通の飛躍的な発展を支えるようになった。しかし、東日本では主に金、西日本では銀がそれぞれに取引の中心とされ、三貨の間の交換率は相場によって常に変動するなど、統一的な貨幣制度は存在しなかったので、貨幣制度の整備を負うところが大きかった。徳川家康が貨幣銀貨鋳造所を金座・京橋に作った事によって入府以来の経済中枢作りの企図が明らかなものとなった。
しかし、消費都市の物流の繁栄の速度に比べて通貨制度の方はそれほど成熟しなかったため、貨幣制度は 17世紀以降、幕府によって何度も変更されるが、いずれも煩雑なものばかりであった。 商品経済が繁栄した江戸時代において、幕府は金座・銀座・銭座を設け、金貨や銀貨、銭貨を鋳造したので、三種の貨幣の間に両替を必要とする動きが始まった事から両替商が生まれるきっかけとなった。 江戸時代の通貨は先ほどの通り、金・銀・銭の三貨であり、この東西で流通制度が異なる事によって、金銀相場が変動する状況下で、市中の銀行の機能の役割を果たすのが町の両替商であった。
両替商の種類
両替商には様々な規模があり、江戸では本両替と呼ばれるのは富俗商人クラスであり、金銀を主として扱い、貸し付けや為替業務を行う。いわゆる上方からの下り荷の為替手形の決済や、諸藩の送金為替などを扱う。これとは別に、金・銀・銭の三貨を扱うのが銭両替、別名脇両替である。その内、資力が乏しい両替商は、単に銭の両替で手数料の切り賃をもらう。 これを説明しているのが以下の文である。
「両替はもと金銀座に於て取扱いたるより両替商も自ら金銀座の附近に起りし…」
金座の近くに本両替商、銀座の付近には新両替商ができる。近世初期、承応(1652~55)の頃の江戸の両替商はこの日本橋界隈だけであった。これが次第に増え、享保3年(1718)に江戸の商業発展に従って「両替商の定員を六百人と定めたる」ほどの数となる。この内、本両替は16人とされている。数の上では銭両替が圧倒的に多く、小売業の副業として、その売上銭を利用しての両替稼業が中心となっていた。まさしく「府下の両替商の多かりしこと知るべし」である。
参考文献
「図説江戸3 町屋と町人の暮らし」 2000年6月14日初版発行 監修 平井聖 発行所 株式会社 学習研究所
「ヴィジュアル百科 江戸事情 第二巻産業編」 1992年1月20日 発行 監修 樋口清之 発行所 雄山閣出版株式会社
「詳説日本史」 2003年3月5日 発行 発行所 株式会社 山川出版社
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