中東戦争2
出典: Jinkawiki
概要
アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対して支援や武器供給を行っていることから、代理戦争の側面も含んでいる。ただしイデオロギーよりは中東地域による利権や武器売買などの経済的な動機が重きを占めていた。そのため初期にイスラエルに支援や武器供給を行なっていたイギリス・フランスは第3次中東戦争以降石油政策などからアラブ側に回り、さらに中華人民共和国やイラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。
また双方の宗教の聖地であるエルサレム、ヘブロンなどの帰属問題の絡んだ宗教戦争の側面もある。
終結について
第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独で平和条約に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。サダトはノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラクが2011年のエジプト革命で政権を失うまで継続された。ただし、革命後に就任したムルシー大統領はイスラム主義系の大統領で、イスラエルとは一定の距離を置く姿勢を見せている。
第二に、1979年にイランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦やアメリカ合衆国なども同じであった。1981年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。
こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラ・テロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。
イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。
1980年代後半になると、イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した(第1次インティファーダ)。
イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。