中江兆民
出典: Jinkawiki
1847(弘化4)年11月1日、土佐(高知)出身の思想家人。本名は篤介(とくすけ)。 フランスに留学し、帰国後仏学塾を開設。西園寺公望とともに「東洋自由新聞」を創刊し、主筆として明治政府を攻撃し、自由民権運動の理論的指導者となった。また、ルソーの「民約論」を翻訳すると共に、自由党機関紙「自由新聞」や大阪の「東雲(しののめ)新聞」などで自由民権運動の啓蒙(人々に新しい知識を与え、教え導くこと)家となった。 代表的著作として、近代日本の在り方を三人の論客、南海先生・洋学紳士君・豪傑君に語らせるという形で著述した政治哲学書の『三酔人経綸問答』・『一年有半』などがある。 兆民は、1847(弘化4)、土佐国高知城下の下山田町部屋町で出生。父は土佐藩足軽元助、母は柳。1861(文久元)年父の死により家督を相続。翌年4月、土佐藩校文武館に入学、1865(慶応元)年土佐藩の藩費留学生として長崎に出てフランス語を学ぶが、このとき同郷の坂本竜馬と出会っている。 翌、1866(慶応2)年江戸に出て、1871(明治4)年に箕作秋坪(みつくりしゅうへい〔1825~1886〕岡山美作津山の洋学者で、箕作麟祥の祖父阮甫〔げんぽ〕の養子。幕府天文方で翻訳に従事、ロシアとの樺太境界交渉に参加。維新後、明六社員)の「箕作塾三叉〔さんさ〕学舎」に入門、同年岩倉具視(ともみ=公卿・政治家。京都の人。初め公武合体に努め、のち、討幕運動に参加。維新後右大臣となり、特命全権大使として欧米視察。帰国後征韓派を退け、内治優先・天皇制確立の政策を遂行した)ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となる。 1874(明治7)年アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学びが、この頃、ルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄・宮城浩蔵らと親しくなる。 1874(明治7)年6月に帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書『民約論』や『エミール』等をテキストとして使用する。 1875(明治8年)明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年に辞職、「英国財産相続法」等の翻訳書を出版する。 1881(明治14)年3月18日に、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺社長、兆民主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたもので、社員に松田正久、相田正文、松沢求策、林正明らがいた。 同紙は当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱として役割を担うが、藩閥政府(明治初年から1924年の加藤高明護憲三派内閣成立まで続いた)であった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。特に近衛・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)家などの五摂家(せっけ)に次ぐ、大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄であった久我(こが)・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門(おおいみかど)・今出川(菊亭)の七家にのちに、広幡・醍醐を加えた九清華家(せいがけ)のひとつの京都の公家(くげ=朝廷に仕える身分の高い者)であった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美(さねとみ)、岩倉具視らは、同年4月8日明治天皇の内勅によって、西園寺に新聞から手を引かせたため、結局、同紙は4月30日、「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊の憂き目となった(公望は勅命により自由民権運動から身を引く)。 翌1882(明治15)年、仏学塾再開、「政理叢談」発行し、1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャンジャック・ルソーの名著『民約論』の抄訳である「民約訳解」を連載、6月には、自由党機関紙「自由新聞」を創刊、10月に『民約訳解』単行本巻之一を発行、1883(明治16)年には、「非開化論」「維氏美学」を翻訳出版する。 1887(明治20)年には、ユーモラスに民権思想を説いた『三酔人経綸問答』『平民の目さまし』を出版、「租税の軽減」「外交失策の挽回」「言論集会の自由」の三つの要求を掲げた「三大事件建白運動」(「三大事件建白書」送達願)が高揚したため、これを弾圧するために活動家達を3日以内に東京(皇居)から3里(12キロ)以外に追放した保安条例(1898〔明治31〕年廃止)により、同年12月25日、東京追放となった(退去命令書)。 兆民は、大阪に赴き、翌年大阪で『東雲(しののべ)新聞』を創刊。8月には一時高知に帰郷、このとき幸徳伝次郎(後の秋水)の門下生となり、「国家論」を出版する。 1889(明治22)年2月11日、大日本帝国(明治)憲法と衆議院議員選挙法(定数300、原則小選挙区制、選挙権資格・直接国税15円以上で25歳以上)及び貴族院令が発布され、東京をはじめ各地で盛大な祝典が挙行され、ここに立憲政治の基礎が敷かれ、同時に大赦(たいしゃ)令が公布され、兆民はじめ多くの自由民権運動家の追放が解除された。 追放が解除された兆民は1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙で、大阪4区より立候補してトップ当選するが、1891(明治24)年に政府側に妥協した国会土佐派の裏切りに激怒、帝国議会を「無血虫(むけつちゅう=血のない虫の意で、冷酷な人をいう語)の陳列場」と揶揄(やゆ)して国会議員を辞職する。この年、『自由平等経綸』『民権新聞』を発刊する。 1892(明治25)年から北海道での山林業や紙業をはじめ鉄道会社等の事業を手がけるがどれも成功しなかった。 宮城が逝去した2年目の1895(明治28)年に建立された宮城記念碑の撰文(せんぶん=文章を作ること。また、その文章)を書く(題字は西園寺公望)。 1901(明治34)年、紀伊和歌の浦を旅行中、のどに異常を感じ4月大阪で診察、喉頭がんで余命1年半と宣言され、5月切開手術、9月帰京して静養を続けるが、病状は悪化の一途をたどる。この間、当時の政治批判や、古今の人物の評価などを随筆風に描いた『一年有半』、日本人の日本人によるはじめての近代哲学書ともいわれる無神無霊魂の哲学書『続一年有半』を著した後、1年を待たず、同年12月13日午後7時30分、東京・小石川武島町の自宅にて54歳で死去、東京大学病院の遺体解剖により食道癌と判明する。翌日、わが国初の「告別式(死者の霊に対して、別れをつげる儀式)」が行われる。 遺言により墓碑はたてず、落合火葬場で荼毘(だび)にふされた遺骨は東京・青山墓地にある母柳子の墓の隣に埋葬された。そして1913(大正3)年に世を去った兆民の妻彌子は兆民のとなりに葬られ、翌1914年に友人や門下生によって「兆民中江先生(えい)骨之標」の碑が建てられた。
参考URL
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/chomin_guidance.html