九州の三大勢力
出典: Jinkawiki
1570年代、九州北部を掌握していた大友氏の最盛期を迎えたが、一方で新興の龍造寺氏や、勢力拡大を進める島津氏が迫っていた。
戦国時代はじめごろ、九州で主要な戦国大名といえたのは、豊後の大友氏、肥前の少弐氏、薩摩の島津氏などだった。そのなかで、まず頭角を現したのが大友宗麟である。きっかけは中国地方の2大勢力の1つで九州にも勢力を有していた大内氏の没落であった。大内義隆が重臣の陶晴賢に殺害されると、大内氏の勢力は急速に衰え、代わって宗麟が九州北部の豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後6カ国の守護に任じられた。
その後、中国地方の覇者にのし上がった毛利元就が侵略の手を伸ばしたが、宗麟の重臣立花道雪らの活躍によって侵攻を食い止め、尼子氏の残党に足元を揺るがされた毛利軍が撤退して大友軍の勝利に終わった。この時期、九州南部では薩摩の島津氏が勢力を拡大していた。一族の内紛を繰り返していたが、島津貴久の代に薩摩統一を果たす。そのあとを継いだ子の義久は大隅を平定し、さらに日向南部に勢力を拡大した。
一方九州北部の名門であった少弐氏は下克上によって倒され、肥前に新たな大勢力が現れた。それが龍造寺氏である。当主の隆信とその義弟の鍋島直茂は2度にわたって攻めてきた大友軍を退け、その名を上げることになった。
こうして九州地方は3大勢力によるにらみ合いと、その周囲での情勢の変化によって立ち位置を変える小勢力の時代へと突入していった。
大友氏:九州北部(現在の福岡県一帯~熊本中部以北・宮崎北部一帯)を勢力範囲としていた。主な城を立花城とした。海外貿易で栄えた商業都市、博多にも近く、九州北部の要地としてしばしば戦場にもなっていた。大友宗麟は、1550年に家督相続。南蛮貿易によって富を蓄え、九州北部6カ国の守護となり、全盛期を迎えた。
龍造寺氏:九州西部(佐賀・長崎一帯)を勢力範囲とした。肥前の国人出身で、少弐氏に仕えていた。徐々に周辺勢力を駆逐し、肥前を掌握した。
島津氏:九州南部(鹿児島一帯・宮崎南部)を勢力範囲にした。
参考文献:図解戦国史(成美堂出版)
--Daijiten2009 2010年1月18日 (月) 03:31 (JST)ryu