享徳の乱

出典: Jinkawiki

享徳の乱

上杉憲忠の謀殺

 京の幕府が衰退していく一方で、関東地方は内乱の火薬庫となりつつあった。周辺の豪族に支持された鎌倉公方足利成氏と、関東管領上杉氏の対立が激化したのである。そして、1445年(享徳3年)に成氏が当時の関東管領上杉憲忠を謀殺すると、この対立は一気に内乱へと発展し、享徳の乱が勃発する。両勢力が各地で戦いを繰り広げ、とくに分倍河原の合戦では双方に多数の死傷者が出たが、戦況としては成氏側が優勢だった。ここに至って幕府は上杉氏支持に動き、駿河の今川氏などに成氏側を攻撃させる。

長年に渡る戦い

 本拠地にしていた鎌倉を奪われた成氏は下総の国の古河に入り、古河公方と呼ばれるようになった。さらに、当時の将軍足利義政が弟の正知を成氏に対抗する鎌倉公方として派遣する。しかし、関東勢力の支持が得られず伊豆の国の堀越に入り、こちらは堀越公方と呼ばれるようになった。こうして、関東の武士の長であるはずの公方が二人登場したのである。この内乱は1478年(文明10年)に上杉氏と成氏が、数年後に幕府と成氏が和睦して終結する。だが、二人の公方と上杉氏のあいだの対立は、のちの関東の動乱へとつながっていく。

鎌倉府

 室町幕府は関東地方を統治するために鎌倉府を設置していた。初代将軍足利尊氏が室町幕府を作り上げたばかりの頃は、弟の直義が関東で政治を行っていた。しかし、観応の擾乱という幕府内部の内乱によって直義が死ぬと、尊氏の二男の基氏が関東に派遣される。そして、足利家の一族が鎌倉府の長官・鎌倉公方として、また上杉氏がそれを補佐する関東管領として、以後の関東の政治を取り仕切っていくことになったのである。


参考文献

カラー版徹底図解戦国時代 新星出版社

戦国武将完全ビジュアルガイド 株式会社カンゼン


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