人種差別3

出典: Jinkawiki

 人種の違いを理由にされる政治的、経済的、社会的差別のこと。原因としては、差別する側にみられる政治的や経済的な優位性を維持したいという欲望や、社会的、歴史的な人種的偏見などがあげられるが、人種的偏見は前者によって作り出されることも多い。人種差別の歴史は古く、近年の例としては、ナチスのユダヤ人迫害、アメリカの黒人問題、南アフリカ共和国のアパルトヘイトなどがあげられる。  第二次世界大戦以降、民族意識の高まりとともに、有色人種による数多くの国家が成立しため、南アフリカやローデシア問題にみられるように人種差別問題は国際政治の中で重要な問題となった。  なお国連総会は1993年に人種差別撤廃宣言を、65年には人種差別撤廃条約を採択している。さらに72年11月には世界人権宣言25周年の73年12月10日を起点とする十年間を「人種差別反対の十年」とすることを可決した。  南アフリカ共和国は89年以来、急速な改革を推進し、91年ついに人種登録法などを撤廃し、アパルトヘイト体制の幕を下ろした。


人種差別の例ユダヤ人問題

第二次世界大戦中、ヨーロッパにおけるユダヤ人に対して組織的に大量虐殺を行うナチス・ドイツの計画のこと。最終的解決の計画が完全に準備される1942年よりも前に、既に100万人に近いユダヤ人が大量殺害されていた。しかし、「死の収容所」とも呼ばれる絶滅収容所を建設し、ユダヤ人の大量殺害を工業的に行うことを本気で開始したのは、ヨーロッパに住む全てのユダヤ人を根絶させることを決定したとき以降であった。この決定は、1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー(ヴァン湖)にある別荘でのヴァンゼー会議においてなされた。その会議では、「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定した、ナチスの高官の集団により行われた議論があった。この会議の記録と議事録は、戦争終結時に連合国によって完全な形で発見され、ニュルンベルク裁判で価値ある証拠として提出されることになる。1942年春、それ以前に死の部隊や大量殺戮により既に数十万のユダヤ人が殺されていたが、ラインハルト作戦によって、ユダヤ人の組織的な根絶が開始された。1943年10月6日のポゼン会議(におけるハインリヒ・ヒムラーの発言によって、初めて、帝国の集められたリーダーたちの前で「最終的解決」が実際に意味しているものが、簡潔で残忍な表現で説明された。



参考 ブリタニカ国際大百辞典


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