人種差別6

出典: Jinkawiki

目次

人種差別とは

人種の相違を理由に加えられる,政治・経済・社会的差別。差別する側の,政治的経済的優位性を維持したいという欲望と,社会的,歴史的な人種的偏見による。その歴史は古いが,近年の典型的な例としては,ナチスのユダヤ人迫害、アメリカ合衆国の黒人問題、南アフリカ共和国のアパルトヘイトなどがあげられる。第2次世界大戦後、民族意識の高まりとともに数多くの非白人国家が成立し、南アフリカやローデシア問題にみられるように、人種差別問題は国際政治においても大きな比重を占めるようになった。国連総会は 1963年に人種差別撤廃宣言を、1965年には人種差別撤廃条約を採択している。さらに 1972年11月には、世界人権宣言 25周年の 1973年12月10日を起点とする 10年間を「人種差別反対の10年」とすることを可決した。南アフリカは 1989年から急速な改革を推進し、1991年人種登録法などを撤廃、アパルトヘイト体制を終わらせた。


人種差別撤廃条約

人種差別撤廃条約は、人権及び基本的自由の平等を確保するため、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策等を、すべての適当な方法により遅滞なくとることなどを主な内容とする。1965年の第20回国連総会において採択され、1969年に発効した。日本は1995年に加入。


人種差別の例① (日本)

日本にも人種差別があり、その影響を受けているのは、部落、アイヌ、琉球・沖縄の人びと、日本の旧植民地出身者とその子孫、そして外国人・移住労働者である。また、近年深刻さを増している在日コリアンなどに対するヘイトスピーチは人種差別の表れである。賃貸住宅契約や店舗入店での「外国人お断り」、警察による人種プロファイリングも人種差別行為にあたる。先に述べたように日本は1995年に人種差別撤廃条約に加入した。しかし、人種差別を犯罪であるとして処罰を定める法律がないため、被害は放置されている。


人種差別の例② (アメリカ合衆国 黒人問題)

差別の始まり

アメリカにおいての人種差別の始まりは、15世紀末から始まったヨーロッパ人のアメリカ大陸への移住からである。ここでアメリカの先住民であるインディアンと黒人は迫害され、奴隷として扱われることとなった。つまりアメリカ合衆国が建国する以前から人種差別があったということである。もともと黒人はアフリカ大陸で誕生したが、後に海を越えてアメリカ大陸へ渡る者と残る者とで分かれることとなる 。しかしながらアメリカに渡った者はヨーロッパから来た白人によって支配され、アフリカに残った人も19世紀ごろから完全に主導権を握られるようになった。

公民権運動

平等を求める黒人の闘争は、1960年代半ばにピークに達した。1950年代の漸進的な勝利の後に、黒人は非暴力的直接行動にますます打ち込むようになった。黒人聖職者から成る南部キリスト教指導者会議(SCLC)や、若い活動家が結成した学生非暴力調整委員会(SNCC)などの団体が、平和的な対決による改革を求めた。

1960年に、ノースカロライナ州で黒人の大学生らが、ウールワース(大手小売チェーン・ストア)の白人専用のランチ・カウンターに座り、拒否されてもそのまま居すわった。この座り込み事件はマスコミの注目を集め、同様の座り込み運動が南部各地に広がった。翌年には、公民権運動の活動家たちが「フリーダム・ライド」を組織した。これは、黒人と白人が共にバスに乗って南部各地の人種隔離されたバス・ターミナルを回るという活動で、ターミナルで人種差別主義者との対立が発生すればマスコミの注意を引き、変化につながることが期待された。

彼らはさまざまな集会も企画したが、その最大のものは1963年の「ワシントン大行進」であった。20万人以上の人々が米国の首都ワシントンに集まり、すべての人の平等を求めてデモ行進をした。歌や演説の続いた1日のハイライトは、公民権運動の傑出したリーダーとして台頭していたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説であった。「私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくようになることである」とキングは語った。彼が「私には夢がある」という一節を繰り返すたびに、聴衆から大歓声が沸き起こった。

公民権運動の初期の実績は、こうした雄弁な演説が求めた水準に達しなかった。当初ケネディ大統領は、南部の白人に公民権運動の支持を求めることをためらった。大統領は他の分野で彼らの票を必要としていたからである。しかし、黒人自身が推進したいくつかの出来事によって、ケネディは行動をとらざるを得なくなった。1962年にジェームズ・メレディスが、黒人であることを理由にミシシッピ大学への入学を拒否されると、ケネディは法律を執行するために連邦軍を派遣した。アラバマ州バーミンガムで、差別廃止を求める抗議活動に対して警察が暴力を振るった事件の後で、ケネディは、公共の場所における人種差別撤廃を義務付ける新しい公民権法案を連邦議会に提出した。しかし、ワシントン大行進の後でさえも、この法案が連邦議会委員会を通過することはできず、1963年にケネディ大統領が暗殺されたときも、法案は委員会にとどまったままであった。

しかし、リンドン・B・ジョンソン大統領は、上院多数党院内総務時代に見せた交渉の手腕を発揮して、上院を説得し、包括的な1964年公民権法の最終採決を妨げていた引き延ばし戦術を抑制させた。この公民権法は、あらゆる公共施設における差別を違法とするものであった。翌1965年の投票権法によって、地方政府職員が黒人の選挙登録を妨げた場合には、連邦政府が登録を行う権限が認められた。1968年までには、深南部で100万人の黒人が選挙登録をした。全米各地で、公選された黒人政治家の数が大幅に増えた。1968年には、住宅差別を禁止する法律が可決された。


キング牧師と公民権法の歴史

・1776年 独立宣言

・1861―65年 南北戦争

・1863年 奴隷解放宣言(←共和党リンカーン大統領)

・1868年 憲法修正第14条(黒人の市民権承認)

・1870年 憲法修正第15条(黒人の選挙権承認)

・1950年代 公民権運動が高まる(1955年バス・ボイコット運動)

・1963年8月 ワシントン大行進(キング牧師の演説「I Have a Dream」)

・1964年 公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)

・1965年 投票権法(黒人の投票権剥奪を禁止)

・1964―68年 「長い暑い夏」(黒人暴動頻発、1966年ブラック・パワー)

・1968年 キング牧師暗殺 


引用・参考文献

コトバンク:人種差別とは https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E5%B7%AE%E5%88%A5-81924 (2018年1月15日閲覧)

アメリカにおける人種差別の歴史 http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2005_22250/slides/03/18.html (2018年1月15日閲覧)

AMERICAN CENTER JAPAN https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3492/ (2018年1月16日閲覧) 

外務省:人種差別撤廃条約 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jinshu/ (2018年1月16日閲覧)

IMADR:人種差別撤廃 http://imadr.net/activity/erd/ (2018年1月16日閲覧)


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