伊能忠敬
出典: Jinkawiki
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概要
江戸時代の後半、日本の近海に外国船が訪れ始め、国内でも正確な地図が必要であったが、当時の日本は地図作りの技術が遅れていた。伊能忠敬は50歳を過ぎてから測量を勉強し、ついに自分の足で日本で最初の科学的な地図を作った人物である。
幼少期
忠敬は、延享2年(1745年)、上総国山辺郡小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の名主をつとめる小関家の次男として生まれた。幼名を三治郎という。13才の時、常陸土浦(茨城県土浦市)にある寺で算術を学び、さらに16才の時には、佐忠太と名乗り、土浦の医師のもとで経学医書を学んだと伝えられている。持ち前の勤勉さから、幅広く教養を身につけたのであった。 たまたま宝暦12年(1762年)の夏、東金付近の坂田郷で土地改良事業があり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、現場監督を頼まれた。この時の仕事ぶりが評判になり、神保家と伊能家の両家と深い親戚関係にあった平山藤左衛門の目に留まり、伊能家への婿入りが決まった。佐忠太17才の時であった。
伊能家での活躍
忠敬は、養子に入っておよそ30年、家業であった酒造と販路の拡大につとめた。また、災害のときはいち早く米を買い入れ、地元の人たちを救った。その間も、子どものときから好きだった数学の勉強を続けた。50歳になると、商売を長男に任せ、翌年江戸に出る。19歳年下の幕府天文方・高橋至時(よしとき)に弟子入りし、測量の勉強を始めた。
測量の開始
正確な暦(時刻の決め方)を作るため、長い距離を測りたかったため、忠敬は、蝦夷(北海道)へ行き、各地で測量をした。このとき作った地図が認められて、全国測量を許されることになった。この時代、測量するには幕府の特別の許可が必要であったが、幕府の役人の資格で全国の測量を許された忠敬は、各地を自由に動き回り、協力を求めることもできるようになった。 忠敬は、17年間に渡って、琉球を除く日本各地で測量を行った。歩いた距離は約4万キロでほぼ地球を一周する距離である。だが、測量の結果をまとめ、地図を作っている最中の文政元年(1818年)4月13日に病気でなくなる。地図作りは弟子たちが続け、4年後に「大日本沿海輿地全図」の名で完成した。忠敬が測量し、弟子たちがまとめた地図は一種類ではない。縮尺によって、大図(全214枚)、中図(全8枚)、小図(全3枚)がある。また、それとは別に、各地方の名所なども大きな縮尺で地図にしている。これは測量のときに協力してくれた人への贈り物にしたようだ。 忠敬が半生をかけて作った日本地図であったが、あまりに正確あったため、完成後、幕府は外国に知られるのを恐れた。公開されたのは明治になってからであった。
参考
- 佐原 伊能忠敬記念館 http://www.sawara.com/tadataka/syougai.htm#01
- 21世紀こども人物館(1999)小学館