儒教

出典: Jinkawiki

中国の代表的思想。春秋時代末期の孔子(こうし)(孔丘)に始まり、戦国時代には諸子百家(しょしひゃっか)の一つであったが、漢(かん)の武帝(ぶてい)の紀元前136年(建元5)に国教となり、それ以後清(しん)朝の崩壊に至るまで歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・文化の全般を支配してきた。また漢字文化圏とよばれる日本、朝鮮半島、東南アジア諸地域にも伝わり、大きな影響を与えている。

同類の語として儒学・儒家があるが、中国では儒教の語はあまり用いられず、学派を意味する儒家、その学問をいう儒学の語によってこれを示すことが一般的である。儒教の語は、外来の仏教に対して300年ごろに生じたものであるらしく、後世に至るまで主として儒仏道三教を並称するような場合に使用されていた。儒家・儒学に対していえば、儒教は教化の面を重視する語であり、いくぶんか宗教的な意味を含む語であったといえよう。思うに儒教は本来が士大夫(したいふ)(治者階級・知識人)の学とされており、その意味で儒家・儒学と称することがふさわしかったのである。そしてこの点は日本でも同様であった。

ところが明治以後の日本では、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に儒教と称するようになった。おそらくは世界史的視野にたってキリスト教、仏教、イスラム教などと並称する場合、やはり儒教とよぶことがもっとも便宜であったのであろう。儒教は宗教ではないが、その中国に果たしてきた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵するからである


目次

教典

儒教の経典は易・書・詩・礼・楽・春秋の六芸(六経)である。 春秋時代になり、詩・書・春秋の三経の上に、礼・楽の二経が加わり、五経になったといわれる。 詩・書・禮・樂の四教については「春秋は敎うるに禮樂を以てし、冬夏は敎うるに詩書を以てす」、『禮記·王制』における「王制に曰く、樂正、四術を崇び四敎を立つ。先王の詩・書・禮・樂に順いて以て士を造[な]す」という記述がある。 孔子は老聃に次のようにいったとされる。孔子は詩書礼楽の四教で弟子を教えたが、三千人の弟子の中で六芸に通じたのは七十二人のみであった[3]。 武帝の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正统の学問として五経博士を設置することを献策した。靈帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立て。熹平石経は光和6年(183年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。


礼儀

子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。周礼は五礼て、つまり吉礼、兇礼、賓礼、軍礼、嘉礼です。吉礼によつて国家の天神、祖霊、地神を祭り、兇礼によつて国家の苦難を哀憚し、救う。賓礼によつて周玉室と他国あるいは国家間を友好親箸たらしめ、軍礼によつて国家同士を脇調させ、嘉礼によつて万民を互いに和合する。五礼のうち、とくに吉礼(祭祀)、兇礼(喪葬〕、嘉礼(冠婚)などを中心として取り上げ、殷周信仰や古来の習俗。


教義

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。 儒教の考えには本来、男尊女卑と言う考えは存在していなかった。しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。これは「夫に妻は身を以って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在ではみなされており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。


人を思いやること。孔子以前には、「おもねること」という意味では使われていた。[要出典]白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者のたのもしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べている。「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。孔子は仁を最高の徳目としていた。

利欲に囚われず、すべきことをすること。(語源的には宜に通じる)

仁を具体的な行動として、表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

学問に励む信言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。


広開土王碑文の儒教関係

泰山高令明永康元年十月廿一日敬来親記之 (亜)

これは後漢・桓帝の永康元年すなわち一六七年の十月二一日に泰山 の高令明が、ここに来観して記したという内容である。これらの刻文 の平原(現在の山東省徳州市陵県)、泰山ともに孝堂山石祠堂からほ ど遠からぬ場所であって、これらは来観者の出身地を示す具体的な事 例である。 いっぽう、画像石の題記には「孝子武始公、弟綏宗、景興、開明」 (武氏祠石闕銘 (唖) )、「孝子仲章、季章、季立、孝孫子僑」(武梁碑 (娃) )、「孝 子張文思哭父而礼」(欒鎮村画像石題記 (阿) )などの文が刻されているこ とがあり、親の死を悼み悲しんで、造墓する「孝子」の存在が銘記さ れている。この他には「兄弟暴露在冢、不辟晨夏、負土成墓、列種松 柏、起立石祠堂」 (薌他君石祠堂題記 (哀) )、「悲哀思慕、不離冢側、墓廬 □庵、負土成墳、徐養淩柏」(山東・嘉祥宋山三号墓題記 (愛) )などの語 がみられ、これは遺族が自ら土を負って墳丘を築き、松柏を植えて墓 を造ったという内容である。とくに「負土成墳」とそれに類する語は、 父母のために土を負って墳を成した行為であって、亡父母への孝養と して、一種の定型的な語となっており、魏晋南北朝期を中心として、 後漢から隋唐にかけて史籍に散見される。その端的な例として、後漢 の祭遵の話をあげよう。祭遵は光武帝に付き従ってその覇業を助けた 二十八人の功臣であるいわゆる「雲台二十八将」の一人の数えられる 人物である。彼は若くして経書を好み、家は富裕といえども慎ましく 粗末な衣服着ており、母を亡くした時は土を担いで塚を作った (挨) 。また、 竹林の七賢の一人として名高い山濤の逸話として、亡母の為に「負土 成墳」し、かつ手ずから松柏を植えたとされている (姶) 。ほかにも東晋の 范宣や劉宋の郭世道をはじめとした名高い孝子が亡父母のために「負 土成墳」「負土築墳」「負土築塋」をなしたという記載が多く認められ る。 この種の祠堂題記の文章は造墓に際する子や遺族の孝を記したもの であり、これらを刻した理由は儒教的倫理によって評価を行う官吏登 用制度の存在であったと考えられる。すなわち、孝や廉といった儒教 の徳目を基準とした官吏任用制度である孝廉選であって、これは前漢 から行われていたが、後漢に入ってとくに盛んになった (逢) 。また運用上 において、孝廉選とはいえ、実際の評価にあたっては孝に重きが置か れていたことが指摘されている (葵) 。このような制度の展開とともに子た る造墓者たちは、親の死去に伴う造墓への傾倒を現世に向かって宣揚 するようになる。


参考URL

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%84%92%E6%95%99/

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99


参考・引用文献

高句麗王陵の築造思想にみる儒教と仏教――追孝から追福へ―― 門 田 誠 一 佛教大学 歴史学部論集 第二号(二〇一二年三月)


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