冷戦8
出典: Jinkawiki
冷戦の起源
1917年のボルシェヴィキ革命以来、米ソ関係の底流には敵対意識がずっと存在してきた。この二つの大陸国家は、お互いに全く相いれないイデオロギーを体現していた。一方のアメリカ合衆国はリベラルな資本主義的民主主義を掲げていた。他方のソビエト連邦は史上初の「社会主義共和国」であり、既存の世界秩序の打倒を目指す「世界革命」の拡大に専念する共産主義専制体制であった。これらのイデオロギー的相違は、1918年に第一次世界大戦が終結した時にも、また、1919年にロシアが不参加のままパリで講和会議が開催された時にも鮮烈に表れた。アメリカの戦争目的は、ウッドロウ・ウィルソンが「14か条」の講和原則を提唱した演説で表明した通り、同盟関係と権力政治に立脚した1914年以前の不安定な国際秩序に変わって、民族自決の原則と国際連盟の創設に基づく新たな世界を作り出すことであった。
冷戦の始まり
モスクワ会談の後に米ソ関係は改善したものの、それは長続きしなかった。1946年の間に米ソ関係は明らかに緊張の度合いを高めていった。その翌年に開始された「冷戦」によって、その後20年間の東西関係は特徴づけられることになった。「冷戦」とは、米ソ両超大国が率いる陣営の間に敵対関係と緊張状態が継続している状態を表す。核兵器出現以前であったなら、東西間の対立はヨーロッパから中東、そして極東へと拡大し、大戦争につながっていただろう。しかし驚異的な威力を持つ核兵器の保有がますます増大し、しかもそれらを使用した場合には恐ろしい結末を招くことが明白であったため、米ソ双方の指導者たちは相手国と接触する時には多少の慎重さを持つことを余儀なくされた。しかし1946年以降、両陣営の間には、わずかな誤認や過剰反応が大惨事を引き起こしかねないような数々の衝突もあった。米ソ関係が徐々に悪化すると、それは英米間の摩擦にも影響を与え始めた。ドイツではソ連とフランスがアメリカ占領地区から賠償用に大量の資材を持ち出しており、それに苛立ちを募らせたアメリカは、軍隊を動員してソ連への賠償資材の搬送を停止させた。ドイツの工場施設一式が賠償として東側に移送されることで、西ドイツ経済が完全に破壊される恐れが生じた。ヨーロッパ以外での出来事も東西関係の緊張を高めることとなった。1942年には、イランの国土の北部をソ連が、南部をイギリスが占領し、死活的に重要なイランの石油資源がナチスの手に陥ることを防ぎ、武器化貸与法によるソ連への武器輸送ルートを確保していた。米ソ間の相互不信は、原爆の国際管理をめぐる東西間の交渉にも悪影響を及ぼした。
冷戦の終結
冷戦はいつ終結したのか。様々な主張があるが、冷戦の終結は1988年末までに達成されていた。理由として東西間の緊張が大幅に減少していたこと、ソ連政府が人権を尊重するようになったこと、そして核兵器の配備に関しても安定と大幅削減が達成されていたことを列挙する。しかも、ゴルバチョフは通常兵力の削減を発表し、イデオロギーはもはや外交政策の動力ではないと宣言していた。しかし、1989年初頭、ドイツはまだ分断されており、東欧には共産主義政権が存在し、NATOとワルシャワ条約機構の軍隊は中欧で対峙していた。
ドイツ再統一
ベルリンの壁の崩壊後、ドイツの再統一が実現した。西ドイツのヘルムート・コール首相とブッシュ政権はドイツの統一を目指した。しかし、ソ連・イギリス・フランスは立場を留保した。ドイツは1945年以来、ソ連の防衛戦略の中心的位置を占めていたのである。1990年までにゴルバチョフはドイツ再統一を容認することを決断したが、背景には3つの理由があった。東ドイツ国家が崩壊したこと、ソ連自身が経済問題を抱えていたこと、そして西側との協調関係を構築するという希望を持っていたことである。東西両ドイツが統一を前にして自らの国内問題を提起し、米英仏ソの占領4か国がドイツ再統一をめぐる国際問題の解決に向けて検討するというものであった。この提案はNATOとワルシャワ条約機構が開催した共同会議の場で了承された。その後東ドイツで総選挙が行われ、東ドイツ新政府は西ドイツとの統合に同意したのであった。
参考文献
マイケルⅬ・ドックリル、マイケルF・ホプキンズ(2009)「冷戦~1945-1991~」岩波書店
佐々木毅・鶴見俊輔・富永健一・中村政則・正村公宏・村山陽一郎(2005)「戦後史大事典」三省堂