冷戦10

出典: Jinkawiki


冷戦ーその意味

 冷たい戦争(冷戦) Cold War は、ジャーナリストのウォルター=リップマンが1947年に『冷たい戦争』を刊行してベストセラーになったことから一般に使われるようになった。アメリカとソ連が直接交戦することはなかったが、西側=アメリカ合衆国、東側=ソ連にそれぞれ代表される「二つの世界」が、あらゆる面で厳しく対立した第二次大戦後の世界情勢を端的に言い表したもの。

 冷戦といわれる時期は、第二次世界大戦末期から1980年代終わりまでであるが、その間のおおよその経緯はつぎのようにまとめることが出来る。 

冷戦の起源と固定化

 しかし両陣営の対立は共にドイツ・日本の枢軸陣営と戦っていた第二次大戦中に始まり、1945年のヤルタ会談での米ソの戦後世界のいわば分割協定から始まるとされる(ヤルタ体制)。ポーランド問題など大戦終結前から両者の対立は抜き差しならぬものがあったが、戦後はヨーロッパでのドイツ問題とアジアにおける朝鮮問題で深刻さの度合いを増していった。「冷戦」という言葉が生まれたのは1947年ごろからで、この年ソ連・東欧圏の共産主義勢力がギリシア、トルコ方面に伸張することを恐れたアメリカのトルーマン大統領がトルーマン=ドクトリンを発表し、「封じ込め政策」を採ったあたりに始まる。同年のアメリカのマーシャル=プランと、それに対抗してソ連はコミンフォルム(共産党情報局)を結成して陣営の引き締めを図った。マーシャル=プラン受け入れをめぐってチェコスロヴァキアで内部対立が発生し、1948年2月、共産党によるチェコスロヴァキアのクーデターが成立すると、イギリスなどは警戒を強め、西ヨーロッパ連合条約を西側5ヵ国で締結し、集団防衛体制の構築を開始した。それに対して1949年には、ソ連・東欧圏諸国はコメコンを発足させ、経済面でも両陣営の対立を明確にした。

冷戦の拡大

 アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国による分割占領下にあったドイツでは、1948年6月の西側の通貨改革強行に対して反発したソ連がベルリン封鎖に踏み切ったときからベルリンの4国管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が事実上確定してしまった。これ以後、ベルリン問題はもっとも先鋭な両陣営館の対立点となっていく。

 さらに1948年頃からのソ連の核兵器開発によってさらに緊張は高まり、1949年4月にアメリカなど西側陣営は北大西洋条約機構(NATO)を結成して、ソ連包囲網の構築を開始した。ドイツはドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の分断体制が固定化された。
 アジアにおいては1949年に共産党政権である中華人民共和国が成立したことで対立は深刻化、中国とソ連は中ソ友好同盟相互援助条約を締結した。1950年の朝鮮戦争はソ連の正式な参戦はなかったが、アメリカと中国が参戦し、事実上両陣営の直接対立となった。
 その中で日本は主権を回復するとともに日本の再軍備を開始、日米安全保障条約を締結してアメリカとの軍事同盟を作り上げたが、同様に米比相互防衛条約・ANZUS条約などが形成された。 

参考文献 http://www.y-history.net/appendix/wh1601-057.html(冷戦 教材工房)(2018.1.27閲覧)


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