切腹
出典: Jinkawiki
江戸時代に見られる、いわば『責任の取り方』である。海外でも『ハラキリ』と称されるほど有名である。切腹は短刀で自らの腹を切り、介錯と呼ばれるとどめを刺す役によって首を落とされる。
日本において、切腹は平安時代が最初といわれている。しかし切腹が武士の自殺の方法として定着するのは鎌倉時代以降と考えられている。切腹の風習は武士社会の成長とともに確立していった。
なぜ腹を切るのか、それには理由があり、腹がいにしえより「霊魂と愛情の宿る場所」とされていたためである。また、切腹は武士が罪を償う、もしくは自分の誠実さを証明する方法として用いられており、感情を殺して冷静沈着に実行しなければならず、それができることこそ武士にとっては名誉であったのである。切腹こそ、武士にふさわしい「洗練せられたる自殺」であった。戦いで死ぬことが名誉であった時代、戦死できなくとも、それと等しい華々しい死に方をと考えたのである。
武士が名誉を、面子を守るために切腹を選ぶ。つまり切腹は自主的なものであったのである。その後、刑罰としても切腹がおこなわれるようになり、それは三代将軍家光の時代には多かったという。喧嘩や不祥事でも切腹を命じられた旗本もいた。しかし、四代将軍家綱以降の時期には少なくなっていったという。
切腹にはそれぞれさまざまな理由がある。そしてそれによってその名称が異なる。主君が死に、あとを追う追腹(おいばら)、職務上の責任や義理を通すための詰腹(つめばら)、無念のあまりに行う無念腹(むねんばら)などである。追腹を切る者たちはみな死んだ主君と男色関係にあったと考えられる者たちだった。男女が愛情を誓い合う際、この時代、切指(小指を切る)や放爪(爪をはがす)などが盛んにおこなわれていた。愛情を表現するためにはわが身を傷つけるしか方法はなく、亡くなった主君への愛情も切腹を使って示された。
切腹のやり方は、武士の家系の男子ならば子供のころから習う作法である。いざ切腹を命ぜられた時に臆して仕損じたり逃げ出したりすることは恥とされた。では切腹の際、どのように腹を切るのだろうか。腹を一文字に切る一文字腹、一文字に切った後さらに刃を返して臍の下まで切り上げる十文字腹がある。鎌倉時代には介錯人の制度がまだなかったため、自らが絶命するまで切らなければならない、残虐な切腹もあった。江戸時代に入って、武士の自殺の方法として切腹が定着すると、作法も確立され、介錯人もついた。介錯人は、腹部を切り裂いただけでは死亡するまでに時間がかかるため、苦痛を少しでも減らそうと腹を切ってすぐに首を落とした。江戸時代中期、「扇子腹」と呼ばれる形式的な切腹の作法も一般的となった。自ら腹を切る覚悟のないものが醜態をさらさぬよう、短刀に見立てた扇子を用いるのである。これは扇子を取ろうとした瞬間に介錯人によって首が落とされるので、苦痛はほとんどないとされる。
江戸時代の道徳は切腹の思想をみても非常に特異なものだとわかる。刑罰として、自殺の方法として、そして切腹することが処刑されるよりも名誉であるとする思想。現代では自殺は最も非道徳的方法としてみなされている。責任をとって、そして身の潔白を証明するために、自分自身のために自分自身で命を絶つ、非常に変わった思想である。今ではさまざまな方法で真実を暴くことができる。血液鑑定も指紋鑑定もできない江戸時代では、切腹を選べる潔さと冷静さ、勇敢さこそその人のかっこよさだったのだろうか。
参考文献
切腹―日本人の責任の取り方― 山本博文 光文社