労農予備校

出典: Jinkawiki

目次

概要

労働者と農民をできる限り短期間に大学への準備をすることを目的とし、ロシアの革命政府によって設置された。 ソ連の初代教育大臣であるルナチャルスキーは、ロシアのすべての子供の大学の入学をめざし、これを保証しようとした。彼は本来的には才能があるにもかかわらず、これまで教育の機会を与えられなかったために、労働者や農民の子どもたちは低い学力水準にある理由なので、その学力を基準に大学の入学の判定をすれば、彼らの本来の才能が正しく評価されないと考えた。したがって、実際には学力が低くても、貧しい労働者や農民の子供たちに大学進学の優先権を与えた。 しかし、採用されても実際に高等教育を受ける基礎学力がなかったために、政府は、準備教育のための労農予備校を設置して、労働者や貧農の子弟が高等教育を受けることができるように配慮したのである。


背景

激しい貧富の差によって生じた教育格差を是正するために実施された。 ロシアは社会主義革命に成功したが、国民は裕福な貴族ととても貧しい大多数の農民や労働者から構成されていた。 そのため革命直後期には十分な教育を受けていたのが貴族だけで、大多数の国民は文盲だったので、当然にすべての国民に「同じ教育」を与えることは不可能であった。 しかし社会主義国家には労働者、農民の一般的文化水準、読み書き能力の向上を不可欠とする。さらにこれまでのブルジョア専門家以上の技術と規律を身に着けた労働者、農民を必要とする。このため、教育機会の量的、質的拡大は初等教育のみだけではなく中等及び高等教育を行わなければならない。 1917年にルナチャルスキーは「住民への呼びかけ」によって、すべての市民にとって平等で、できるだけ高い教育の実弁を理想とすることを発表した。その理想の実現の過程として、最高段階(大学)への進学は生徒の過程の富裕の程度によらず、本人の才能による「自然な進学」を目指した。 1918年8月2日に「八月の布告」と呼ばれる大学入学に貧農が優先するという方針が呈示された。これによって、歴史上で初めて、学力や階級に無条件に、大学の聴講生になることを可能にすることで、すべての人の学習の機会を保障した。 その結果、事実上は大学の門戸は無条件で解放され、各地の大学には労働者と農民であふれた。 しかし、労働者や農民には基礎知識が足りなく、次第に大学を去ることになった。 このようにソビエト政権初期の教育政策は十分な成果を得られなかった。


過程

大学の開放によって、労働者や農民たちは自らの基礎学力の不足を実感した。 そこで「八月の公布」が出された1918年、大学教育の準備を目的とした学習サークルがモスクワを中心に生まれた。 しかし、学習サークルにおける教授たちの学習水準は低く指導力不足だった。さらに、学習サークルに労働組合は積極的な援助を行ったものの、物的資材が不足していた。 その一方、労働者や農民が学外に出たため、大学では富裕層たちによって反革命的な空気が強まり、共産主義の危機を迎えた。そのためにさらに急速に労働者や農民を大学に増やさなければならなくなった。 そこで彼らを大学に増やすために学習サークルを大学の付設にし、そのサークルの労働者らたちを大学の学生と登録されるように決められた。 この学習サークルの大学への付設化が労農予備校の誕生になった。 大学の組織に組み込まれた労農予備校となることで、大学教育の準備のための特別な教育プランが与えられるなど、労働者学生も多くの恩恵を受けた。 モスクワ大学の成功に始まり、1919年にすべての大学高専に労働予備校の設置が義務づけられた。 1924年には義務教育プランが作成された。これは労農予備校が大学へのパイプとしての目的に統一されたことを意味している。 発足当初は三か月だった学習期間はより多くの教育内容を身につけるための教育プランの拡大したことで、学生の要望から最終的に3年もしくは4年に延長された。 1930年代前半まで、入学者はこれまでに見られないほどの調子で年々増加する傾向が見られ、このころに学生と学校の数ピークに達した。 そして、労農予備校は国民全体の知的水準を上げることに貢献し、経済の復興に対応し対応した。さらに大学に多くの労農予備校卒業生を送り出すことで、大学内のコムソモール員(全同盟レーニン共産主義青年同盟)を大幅に増やし、高等教育のプロレタリア化を促進に成功し、社会主義の建設に対応した。 しかし、このように多くの成果を上げた労農予備校もやがて消滅に向かう。 1932年、「小・中学校にかんする」決定によって、欠陥のあった中等普通教育は急速に改善され、のちに最も基本的な大学へのパイプとなっていった。これに伴い労農予備校の大学入学者の割合、入学者の数も減少するようになった。また労農予備校の急激な発展によって、活動の設備や財政的準備が不足し、さらに卒業生の数が大学の定員を大幅に上まわることになった。そして、労農予備校の数と学生数は急激に減少することになる。 労農予備校は、1940・41学年度に消滅した。 ただし労農予備校の消滅は、学生数の減少などの問題が決定的な要因になったのではない。 この消滅の時期は、社会主義建設の達成と階級の消滅の時期に対応している。 つまり労農予備校は大学のプロレタリア化に成功するという大きな任務を果たしたために、消滅へと向かったのだと考えられている。


参考文献

プロレタリアートの独裁と過渡期の教育 竹田正直 北海道大学 1963

振興ロシアの教育 信仰教育復刻版刊行委員会〔編〕白石書店 1980

ロシアの教育・過去と未来 岩崎正吾 遠藤忠 新読書社 1996

国際教育論 太田和敬 文教大学人間科学部 2012


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