勢力均衡政策と集団安全保障体制

出典: Jinkawiki

勢力均衡政策

第一次世界大戦後の国際連盟の成立まで一般的に考えられていた政策。すなわち、各国の勢力がつりあっていれば平和が維持できるという考え方である。これは政治的・経済的優位の追求という権力政治(パワーポリティクス)の展開の中で生まれてきた政策である。

この政策は常に力の均衡を必要とするため、一方で軍備拡大競争や軍事同盟の結成・拡大を招くことになり、一つ間違うと大きな戦争となる。第一次世界大戦はその典型的な例である。ドイツは、オーストリア、イタリアとともに三国同盟を結成した。これに対して中世以来仲の悪かったフランスとイギリスはドイツに対抗するため手を結び(英仏協商、1904年)、これにロシアも加わっていわゆる三国協商が完成した。三国同盟と三国協商が対峙する中、1914年6月、サラエボでオーストリアの皇太子がセルビアの青年に暗殺されるという事件が起きた(サラエボ事件)。これがきっかけとなって、連鎖反応が引き起こされ、第一次世界大戦が始まったのである。


集団安全保障政策

第一次世界大戦の反省により、それまでの勢力均衡体制から集団安全保障体制へと移行した。それは対立する国家をも含めた集団を作り、その外には敵対する国家を作らず、その集団内でお互いに平和と安全を守っていこうとするものである。もし加盟国の一つがそのルールを破れば、残りの全加盟国が共同で違反国の「制裁」にあたるものとする。そうすれば、すべての加盟国は「制裁」を恐れて、ルールを破ることはしないはずである。このルールの中に「侵略戦争をしてはならない」という一項目を入れておけば、平和は保たれる。これが集団安全保障の基本原理である。

しかし、国際連盟においては、十分機能しなかった。アメリカは当初から不参加。ソ連は1934年加入・1939年除名。ドイツは1926年加盟・1933年10月脱退。日本は1933年3月脱退。イタリアも1937年脱退などと、大国が不参加だったことや、総会も理事会も全会一致の原則を採用したため、決定できないことも多かった。さらに、違反国への制裁の欠如も大きかった。 現在の国際連合下でも、二国間条約や地域的安全保障体制(NATOなど)があり、現実としては集団安全保障体制がその理念となているとはいいがたい。


◇参考文献

『クローズアップ現代社会』2007 第一学習社

南 英世の政治・経済学講義ノート http://sakura.canvas.ne.jp/spr/h-minami/note.htm


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