北山文化
出典: Jinkawiki
室町幕府3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の晩年から、4代将軍足利義持(よしもち)の時代にかけて栄えた文化の総称。 室町時代には、政治的・経済的に公家勢力を圧倒した武家勢力が文化的にも担い手となり、禅宗の影響を強く受けた武家文化が、伝統的な公家文化と融合しながら特色ある文化を生み出した。また、さまざまな文化の融合も進み、しだいに民族的文化というものが形成されていった。今日の日本の伝統文化を代表するものとされる能・狂言・茶の湯・生け花などの多くは、この時代に中央・地方を問わず、公家・武家・庶民の別なく愛好され、形を整えて基盤を確立していった。 南北朝の動乱期を背景とした南北朝文化が生まれ、ついで3代将軍足利義満の時代に北山文化が、8代将軍足利義政の時代に東山文化が形成され、とくに北山・東山文化は室町時代の2つの頂点をなしている。
義満は、南北朝合一の翌々年、1394年(応永1)に将軍職を子の義持に譲って、太政(だいじょう)大臣となったが、義持がまだ幼少であったので、幕府の実権を握るとともに公家(くげ)の最高職をも兼ねる立場にたち、絶大な権威のもとで政治を左右しただけでなく、この時代の文化に新生面をもたらした。その影響は義満没後にも及び、応永(おうえい)~永享(えいきょう)期(1394~1441)における室町文化の多彩な発展には目を見張るものがあり、この時代を日本のルネサンスとする説もあるくらいである。 政庁としての機能を果たしたのが、1397年に造られた、三層の金箔の舎利殿(金閣)を含む北山第の御所である。三層からなる金閣の初層は法水院、二層は潮音洞と称され、ともに寝殿造りの手法によっており、三層の究竟頂には舎利が安置された禅宗様の仏道の形式をとり、庭園は浄土式庭園である。総じてこれまでの建築・庭園の形式を統合化したものであり、広く義満の目指した文化的な統合を象徴したものとなっている。
特徴
伝統的な公家文化と新興の武家文化との融合ということ、さらには禅宗の深い影響や庶民文化の洗練ということに示される。代表的な建築とみられ、北山文化のシンボルともされる金閣は、舎利殿という仏教的な名称をもち、公家邸宅の伝統にたつ寝殿造と寺院風の仏殿造とが一体化して、しかも最高の価値を示す金で飾られた。またこれに付随していた会所では、連歌や闘茶の会が催されたり、日明貿易の舶来美術品である唐物が陳列されたり、立花が展示されたりした。また文学では五山の禅宗寺院を中心とする漢詩文が主流を占め、絵画では宋・元の影響を受けた水墨画が流行した。さらに芸能では、もともと庶民芸能の一つであった猿楽が、ほかの芸能の美点をも吸収しながら、義満や公家の二条良基らの保護を被った世阿弥によって能楽へと大成された。
*参考資料*
・京都通百科事典 http://www.kyototsuu.jp/History/BunkaKitayamaBunka.html
・「日本の歴史4 武士の時代」五味文彦著 岩波ジュニア新書 2000