北条早雲

出典: Jinkawiki

北条早雲[1432(永享4)~1519(永正16)] 享年88

・早雲の出自

 北条早雲の出自については、長い間詮索されていた。その結果、伊勢の素浪人からのし上がった下克上の代表者という説がどういうわけか定着してしまった。しかし、真実はそうではない。れっきとした室町幕府政所執事伊勢氏の一族だったのである。本名は「伊勢新九郎盛定」、法名「宗瑞」というのが正しい。北条氏に改姓したのは息子の氏綱の代からであり、彼が存命中に北条早雲を名乗ることはなかった。

・戦国大名の先駆け

 早雲が実際の歴史の上にその名を現すのは1467年(文明8)、妹の北川殿が駿河守護・今川義忠に嫁いだのを頼って駿河に行き、今川家に仕官。義忠の死後に、今川氏の家督争いに介入し、内紛を解決したときである。その功によって早雲は、駿河国興国寺城を与えられ、一城の主となった。このとき早雲は50代半ばであった。その頃、足利政知が鎌倉公方に就任し、鎌倉に下がってきた。しかし政知は、古河公方として関東に勢力をはっていた足利成氏のために鎌倉に入れず、伊豆の堀越にとどまり堀越公方と呼ばれた。1491年(延徳3)、政知が死ぬと、政知の後継の潤童子が異母兄の茶々丸に殺され、茶々丸が堀越公方となった。これにより堀越公方は混乱した。隣国駿河でこの情勢を見ていた早雲は好機到来と見て、手勢500を率いて伊豆に侵入。茶々丸を急襲し御所を焼き、一夜にして伊豆国を乗っ取った。鮮やかな「国盗り」であった。

・伊豆から関東へ

 伊豆一国の大名となった早雲は、韮山城に居城を移した。この時、もうすでに60歳になっていたが、野心はまだまだ旺盛だった。伊豆国の東方に広がる関東の大地の政情は不安定で、才意次第で関東公方や関東管領の旧勢力にとってかわり、この地を支配することができるだろうと考え、その関東制覇の足がかりとして、早雲が次に目をつけたのが隣国相模である。1495年(明応4)、早雲は鹿狩りと偽って、猟師に扮した兵を相模に入れて、またもや謀略と奇襲攻撃により要衝の小田原城を落とし、関東進出の拠点を築いた。そして、1516年(永正13)には平安時代以来の相模の豪族、三浦氏を攻め滅ぼし、ついに相模国を平定した。これを機に早雲は氏綱に家督を譲り。1519年に韮山城内で没した。

・早雲のイメージ

 早雲は謀略を好む梟雄としてのイメージが強いが、当時の武将で彼ほど民政を重視した人物はいなかった。足利茶々丸を急襲して伊豆国に乗り込んだとき、早雲がまず手がけたのは「風病」に苦しむ人々の救援だった。そして、年貢を五公五民から四公六民に軽減して荒廃から救ったという。これらは『北条五代記』に書かれた逸話だから真偽のほどは定かではないが、早雲が検地の実施や、貫高制の採用などで、それまで土豪や国人が支配してきた村落を直接把握しようとしたのは多くの資料で証明されている。また、守護領・荘園・国衙領などさまざまな支配体系が複雑に絡み合っていた村落を、大名権力によって再編する動きも早雲によって開始された。こうした治世の巧みさこそ、戦国大名の先駆けとしての早雲の真価を語るものといえよう。

-諸役宥免せしむるにをいては、地頭と百姓和合いし、水魚の思ひをなすべし- (早雲) 『北条五代記』

参考文献・出典

歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 (学研)

日本史1000人上 (世界文化社)

戦国武将最強は誰だ? (一水社)


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