北条時行
出典: Jinkawiki
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概要
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。父は北条高時。幼名は亀寿丸、勝長寿丸ほかさまざまに伝えられる。正慶二・元弘三年五月鎌倉幕府滅亡に際し、叔父泰家の命を受けた諏訪盛高に守られて鎌倉を脱出、信濃国諏訪社を中心とする諏訪神党にかくまわれた。建武二年六月西園寺公宗らを中心とする建武政権打倒計画が発覚したが、これに呼応していた時行は諏訪頼重・時継父子や滋野一族ら神党に擁されて七月信濃で挙兵。守護小笠原貞宗と交戦したのち武蔵国女影原・府中などで渋川義季・岩松経家。小山秀朝らを敗死させ、井出沢で足利直義を破り鎌倉に入った。しかし八月足利尊氏が下向すると形勢は一転、時行は鎌倉を脱出した。このことを中先代の乱という。わずか二十日余りの在鎌倉であった。その後、建武四・延元二年七月後醍醐天皇から朝敵赦免の綸旨を得て南朝方となり、陸奥から西上する北畠顕家軍に合流し一二月鎌倉を奪回、翌年正月美濃国青野ケ原の戦いで足利軍を敗走させた。九月伊勢国大湊から東国に向かう南朝方の船団に同乗、歴応四・興国元年六月信濃で挙兵し四カ月間の籠城戦の末に落城、潜行を余儀なくされた。文和元・正平七年閏二月観応の擾乱に乗じて上野で挙兵した新田義興・義宗兄弟とともに鎌倉を一時占領したが、尊氏に敗れて鎌倉を脱出。翌年捕らえられ、五月鎌倉西郊の竜口で処刑された。
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参考文献
鎌倉北条一族 新版 著:奥富敬之
日本中世史事典 編:阿部猛 佐藤和彦 朝倉書店