千 利休
出典: Jinkawiki
- 千 利休
千利休は、堺の商人の子として生まれた。18才の時、武野紹鴎に入門し、十五年ほど紹鴎のもとで学んだ。そして、織田信長が室町幕府を倒して政権を樹立し、天正六年(一五七八年)利休が五八歳の時、信長に召され、茶道役となった。しかし、天正十年信長が本能寺の変に倒れてからは、新たに豊臣秀吉に仕え、知行三千石を与えられた。このころになると、茶の湯と言えば千利休の茶の湯を指すことになり、茶の湯での天下統一がはかられた。利休の茶は、紹鴎のよりも一層わびを深めたものだが、紹鴎の隠遁的なわびに対して、利休のわびは静けさの中に、新しい活動力を潜めていたものであった。こうした利休のわびの思想が、活動的に富んだ当時の人々に迎えられた。また、利休は、精神面以外にも、美術工芸、特に茶装具などにいろいろと改革を図り、日本の陶芸その他の美術工芸の発達に大きな影響と一つの基礎を与えた。 千利休が仕えていた豊臣秀吉だが、秀吉は、茶道を戦国時代以来落ち着かぬ人心を静め、荒れすさんだ武将の精神を和らげ、武士、町人との融和に利用していた。また、秀吉自身も茶道を楽しみ、わずかな時間でも暇があれば、利休のたてるお茶を飲んで、心の憩いを求めた。そのため、利休は、山崎合戦、九州征伐、小田原陣など、秀吉の行く戦場には、必ず付いていった。その間、利休の指示によって、山崎の妙喜庵、山里の席、聚楽第の茶室など、次から次へと建てられ、利休は秀吉を必要とし、秀吉もまた洗練された利休の美が国敬意をはらい重んじ手、良い関係だった。しかし、秀吉が天下人の位置を着々と築いていく過程で、利休もまた、秀吉の単なる茶頭から側近として力をつけるようになる。利休と秀吉が決定的に対立していった理由については、「茶の湯をめぐる芸術関係」と「豊臣政権内の政治的要因」の二つに集約されるだろう。これらの具体的例としては、茶の湯においての下剋上である。秀吉が一生懸命名物をたくさん集めてきても、秀吉には名物をみつける力はなかった。その点、利休には「目利き」という新しい名物を取り出す能力がある。したがって、利休がこれを良いと言えば、すぐに名物がどんどんでてきてしまう。これは、茶の湯の上でも天下人でありたい秀吉にとっては、たいへん具合が悪かった。利休が秀吉の所持する名物の秩序を維持し、守ってくれる茶頭ならいいが、逆に秀吉が天下人になったとき、利休は名物に取り囲まれた秀吉の茶の世界をむしろゆさぶるような、そういう下剋上的な性格もいっぽうでは持っていた。天正十五年に、北野の大茶湯が催され、十七年には大徳寺の山門に楼閣を寄進し、自分の僧体の像を安置した。この木像も、のちに問題となっている。そのため、のちに利休は豊臣政権内で急速に力を伸ばしてきた石田三成との政争に敗れ、ついに天正十九年二月二八日、秀吉から死を賜った。
- 戦国時代から江戸時代においての「茶の湯」の存在
戦国期においては、茶道具は最高級の贈答品として使われており、権力者に名物を献上することによって一命を救われた武将もあった。織田信長は、名物狩りを行い、堺の商人たちが所有していた天下の名物を狩り集めている。信長にとって茶道具とは、威勢のあかし、権力の象徴にほかならなかったのだ。覇王の茶というものを意識し、不住庵梅雪を茶道に指名した。不住庵梅雪は、上京の新在家に住していた町衆である。珠光流の茶の湯を行い、当時の京の茶人のなかでは一番者と目されていた。信長は「京を治めるには、町衆を味方につけなければならぬ」と考え、梅雪を茶頭にすえたのだ。信長にとって茶の湯は、芸術でも、心の糧でもない。彼の精神を貫く合理性にのっとった、政治の道具の一つであった。 また、徳川家康は、政敵に惜しげもなく茶道具を与えることで、みすからの存在を強烈にアピールし、将来への布石にするという心憎いばかりの老獪な政治手法を使った。また、いざという時は、「鋳潰せば、軍賃金になる…」とでも思っていたのではないか。これは、家康が茶道具を“人を動かす道具”として見ていたからできたことで。いささかでもそれに固執したり、執着したりする気持ちがあれば、政敵の戦勝祝いに天下の大名物を送るようなまねはしなかったにちがいない。
- 利休死後 三千家の分立
利休の死後、利休の子である少庵がその跡を継ぎ、少庵の子であった宗たん旦が三大目を継いで、千家を再興させた。京都の茶亭を守り、自らの茶風を築き上げた宗旦は、たびたび仕官要請を断り、わび茶人として生きる道を選んだのが、三人の子息や高弟たちにはむしろ積極的に仕官を勧めている。まず、進めたのは三男十三郎(宗左)の有付(就職)であった。大徳寺の玉室宗珀に依頼し、肥前唐津の寺沢広高に仕官し、宗受と改名。しかし、四,五年を経ずして寺沢家が断絶したため、さらに讃岐高松の生駒高敏に職を得て宗左と名乗る。その生駒家も御家人騒動で改易されてしまったため、最後に紀伊の徳川頼宜に仕官する。続いて、四男玄室(のち宗室)が加賀前田家に、二男宗守が讃岐高松の松平家にそれぞれ有付くが、いずれも宗旦による積極的な働きかけの結果であったことはいうまでもない。後にこの三人は、利休の血脈を守る茶家として独立し、裏千家、表千家、武者小路千家と呼ばれるようになる。 宗旦が、かたくなにみずからの仕官を拒んだのは、祖父利休の迎えた悲劇な結末を繰り返さないことを考えたのも理由の一つだが、それから四世紀を経て世情も安定していたことや、利休の茶の湯を継続させる手段の一つと考えたのだろう。
- 利休に関するエピソード
・ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!秀吉は利休の美学に脱帽したという。
・秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。
・弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。
・秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。
・利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。彼が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)
- 参考文献
熊倉 功夫 「昔の茶の湯 今の茶の湯」 淡交社 1985年
村井 康彦 「茶の湯の歴史」 淡交社 1969年
谷 晃 「茶人たちの日本文化史」 講談社現代新書 2007年
谷端 昭夫 「よくわかる茶道の歴史」 淡交社 2007年
火坂 雅志 「豪快茶人伝」 角川ソフィア文庫 2008年
裏千家 家元 千 宗宝 「お茶の道しるべ」 主婦の友社 1956年
千 宗佐 千 宗宝 千 宗守 「利休大事典」 淡交社 1986年