千利休2
出典: Jinkawiki
千利休
千利休は、堺の納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、幼名を与四郎と称した。祖父は、足利将軍家の同朋で千阿弥といい、その名をとり、正親町(おおぎまち)天皇より許されて、千姓を名乗った。居士は、初め東山流の書院茶の珠光、紹鶴の流れをくみ詫び草庵の茶を融合して、茶の湯を道として大成し、茶道盛行のもとをつくった。 居士はまた、桃山時代の一大傑作として重んじられ、豊臣秀吉から三千石の知行をうけたが、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に、自像を安置したことや、秀吉との茶の精神的な違い、その他の理由が重なって、秀吉によって切腹を命じられ、70歳の命を果てた(1591年2月28日)。 千利休の居士号は、秀吉が正親町天皇にお茶を献じた時、勅許によって拝受したものである。
豊臣秀吉と千利休
利休と秀吉の関係は、織田信長の時代から始まっている。当時利休は、信長の茶頭の三番手だった。1585年の禁中茶会は秀吉が関白になり、その返礼として茶会を主催したもので、菊の間で秀吉自ら入れたお茶を正親町親王に献じ、利休は控えの間で後見した。この時に与えられたのが『利休』の名前である。これを機に名前を変え、名実ともに天下一の茶匠となった。
千利休の最期
1591年、利休は突然秀吉の怒りに触れ、堺に下向を命じられる。小さな茶器と茶半袋だけを持って京を後にする。異変を聞きつけて、見舞いの使者や書状をよこす弟子らも少なくなく、大名である弟子の前田利家や古田織部、細川忠興らが助命するように奔走したが、願い叶わず、堺で10日ほど謹慎させられた後、京に再び呼び戻されて切腹を命じられる。2月28日、朝から雷鳴がとどろき、雹が降る中、京の利休屋敷の一隅で、釜の湯が煮えたぎる音を聞きながら利休は腹を横一文字に切り、ハラワタを取り出して自在鈎にかけ、更に十文字に切って介錯を頼んだといわれている。弟子の蒔田淡路守が介錯して首を落とし、利休の妻、宗恩が白小袖を上からかけた。
参考文献
以降-裏千家ホームページ 茶の湯に出会う、日本に出会う 裏千家 今日庵 千利休-【日本歴史巡り】[1] HN.Match