南北戦争(米)
出典: Jinkawiki
南北戦争とは
南北戦争(1861~1865)。奴隷制度廃止問題がもとでアメリカの北部と南部の間に起こった内乱。北部が勝ち、奴隷制度は廃止された。
背景
北部の自由州と南部の奴隷州には、以前から関税や内陸開発等の問題に関して1830年代から対立が見られていた。1840年代になると西部開発が進み、新たな領土が増えると共に、これらの州に奴隷制を導入するか否か問題となった。 1820年のミズーリ協定によって新たな加入州が奴隷州または自由州になるのかが定められ、1840年代末の時点で奴隷州と自由州の数は15対15で均衡を保っていた。しかし、メキシコ戦争で獲得された新領土のうち、ゴールドラッシュによって人口が激増したカリフォルニアが49年末、自由州として連邦編入を希望した。ミネソタやオレゴンも自由州として連邦加入が予測され、連邦会議における南北の勢力バランスが崩れることを恐れた南部は強く抵抗した。結果、「1850年の妥協」が成立し、カリフォルニアの自由州編入、コロンビア特別区の奴隷取引禁止、より厳格な逃亡奴隷取締法を定める、ことなどが決められた。1854年にはミズーリ協定を否定したカンザス・ネブラスカ協定が定められ、衝撃を受けた北部は共和党を結成した。 次第に対立は深まり、1857年にはドレッド・スコット判決、1859年にはジョン・ブラウンがカンザスで蜂起し、武器庫を襲撃する事件などが起こった。このような緊迫した状況の中、1860年に大統領選挙が行われ、共和党出身のエイブラハム・リンカーンが当選した。しかしこれを機に南部諸州は次々に連邦を脱退し、翌61年にアラバマ州でジェファソン・デイヴィスを大統領とする南部連合国を結成した。
南北戦争
南部諸州が次々と連邦を脱退していった為、アメリカは国家分裂の危機に直面した。リンカーンは南部に連邦復帰を呼びかけたが、1861年4月南部連合国が連邦のサムター要塞を砲撃し、戦争に突入することとなった。 州権を強調し、中央集権的な連邦政府を否定することで奴隷制維持を図ろうとした南部は、皮肉にも強大な北部に対抗するため、権力の集中化を避けられなかった。デイヴィスは増税、工場や鉄道の規制、政府との生産契約の強制、官僚機構の肥大化などを行った。 この戦争によって、民衆の生活は大きく変化した。南部では、兵士となった夫や息子の代わりに女性が畑仕事や奴隷監督をやり始め、都市では役人や教師の職に就いたり、負傷兵の看護を行った。また、一般大衆は貧困に悩まされるようになった。投機や買いだめ、北部による海上封鎖で、日用品が不足し、インフレの深刻化を招いた。しかし裕福な階級では代理人を出し、兵役を逃れた者もいた。そのため、この戦争が「金持ちのための戦争」と気づく人が増え、連合国南部に軋轢が生じ始めた。 北部では戦争当初、不景気に見舞われたが、政府の戦争関連の支出が経済を再生させた。また、機械が多く導入され、工業化が進むと共に、大陸横断鉄道も完成した。北部でもインフレに悩まされ、機械の導入による失業の危険もあった。戦争中に13の全国組合が組織されストライキが増加した。そして北部の女性も兵士援助教会の組織、傷病兵の看護、寄付金集めなどであたら良い役割を担った。 連邦と大統領の権限は増大し続け、1861年にアメリカ史上初の所得税も導入された。 戦争末期、南部は内部の抵抗に直面した。1863年には各地で食糧暴動が勃発し、兵役に就く者も急速に減り、脱走者も急増した。北部でも反戦感情が高まり、各地で徴兵暴動が起こったが、政府の安定を脅かすには至らなかった。 1865年4月9日南部軍のリー将軍が北部軍のグラント将軍に降伏し戦争は終結した。しかし、リンカーンは17日ワシントンのフォード劇場で狙撃され、翌日死亡した。南北戦争双方の戦死者は60万人以上に上る。
参考文献 アメリカの歴史を知るための62章 第2版 富田虎男・鵜月裕典・佐藤円編 明石書店
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