南北戦争6
出典: Jinkawiki
目次 |
歴史的意義
戦争による戦死者数は南北両軍あわせて61万余に及び(ちなみに第二次世界大戦でのアメリカ軍の戦死者数は40万余)、また機関銃が初めて実戦化されるなど、大規模な近代戦の様相を呈した。この戦争が合衆国に与えた衝撃と影響は深甚かつ広範であったが、とりわけ黒人奴隷制度が廃止され、400万の黒人奴隷が奴隷身分から解放されたことの歴史的意義は、きわめて大きい。[本田創造]
背景
18世紀後半の独立戦争(「アメリカ独立革命」)は、多くの点で先進的性格をもっており、「第一次アメリカ革命」ともよばれるにふさわしい数々の成果を収めた。しかし、それにもかかわらず、革命の指導権を握ったのが北部の大商人と南部のプランター(プランテーション経営者)であったという歴史的制約のために、新たに誕生した近代的民主共和国のなかに、前近代的な一つの制度を残すことになった。この革命は、植民地時代から存続していたこの国の黒人奴隷制度を廃棄することができなかったのである。南北戦争に先だつ数十年間に植民地時代の主要商品作物であったタバコにかわって、綿花生産を中心にした黒人奴隷制度が南部で以前とは比較にならぬほど大発展を遂げることを可能にした歴史的条件は、こうして独立革命そのもののなかに求められる。おりからイギリスでは産業革命が飛躍的に進展し、原綿需要は増す一方で、ホイットニーの綿繰機の発明と、従来の海島綿(かいとうめん)にかわる新品種の陸地綿の導入とは、南部が綿花生産地域としてイギリスのこの需要にこたえる直接的契機となった。 他方、北部においては、対英戦争(一八一二年戦争)後、19世紀も進むにつれて、木綿工業や鉄工業が発達し、これらの産業を基軸にして合衆国でも産業革命が進行し、自立的な独自の資本主義が北東部(ニュー・イングランドおよび中部の諸州)で急速に展開し始めていた。北西部の独立自営農民層を基盤にした商業的農業の発達は、運河や鉄道などの運輸・通信機関の伸長によって北東部と結び付き、これらの二大地域に地域間分業に支えられた資本主義的再生産圏が成立する。北東部の工業の急速な発展を支えたのがその後背地として広大な国内市場を提供した北西部で、その北西部の農業の発展は農産物市場としての北東部の工業に依存していたのである。北東部と北西部との間に種々の地域的利害対立が存在したにもかかわらず、現実にそのような相互依存関係が成立したのは、これらの二大地域が基本的には自由労働に基づく社会発展の道を歩んでいたからである。 こうして、19世紀前半の合衆国では、各州それぞれに別個の州憲法をもちながらも、合衆国憲法という統一原理のもとに組織された一つの共和国=国家的領土内に、南部には黒人奴隷制度を基礎にした前近代的社会が、北部には資本主義を基盤にした近代的社会が、それぞれ同時併存し、ことごとに社会・経済・政治的諸利害が地域対立として顕在化した。1820年のミズーリ協定成立、28年および32年の関税法制定、45年のテキサス併合、46~48年のメキシコ戦争、「50年の妥協」成立、54年のカンザス・ネブラスカ法制定とそれに続くカンザスの内戦、57年のドレッド・スコット判決などの一連のできごとは、南北間の軋轢(あつれき)の代表的なものである。 このような時代的背景のもとに、1848年には奴隷制度に反対する諸勢力が結束して自由土地党を結成したが、この党のスローガンは「自由な土地、自由な言論、自由な労働、自由な人間!」であった。続いて「50年の妥協」とカンザス・ネブラスカ法に対する闘いのなかから、より強大な奴隷制反対政党である共和党を誕生させ、56年の大統領選挙には早くもジョン・フレモントを大統領候補に擁立、プランター=奴隷所有者の利益政党である民主党と闘った。そのときの共和党のスローガンは「1フィートの新しい土地も奴隷制に明け渡すな。国外での侵略的政策をやめよ。奴隷貿易の再開を非難せよ。自由土地法を制定せよ!」であった。そして、59年10月の奴隷解放論者ジョン・ブラウンによるバージニア州(現ウェスト・バージニア州)のハーパーズ・フェリー襲撃・占領は、そこに南北戦争の発火点をみいだしてもよいできごとであった。[本田創造]
経過
1860年秋の大統領選挙で共和党のリンカーンが当選すると、サウス・カロライナ州がただちに合衆国を離脱し、翌61年の2月1日までにミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスの南部6州がこれに続いた。そして、同年2月4日には、これらの諸州の代表がアラバマ州のモントゴメリーに集まって討議のすえ、9日には合衆国と敵対する南部連合(アメリカ連邦ともいう)Confederate States of Americaを樹立し、ジェファソン・デービスを大統領に選出して、公然と奴隷制度を認める憲法を制定した。続いて、4月12日の未明、南軍がサウス・カロライナ州にあった北軍のサムター要塞(ようさい)に砲撃を浴びせ、内戦の火ぶたが切って落とされた。これに対しリンカーンは、初めて7万5000人の志願兵を募集し、また南部の海上封鎖を命じた。その後まもなくバージニア、ノース・カロライナ、アーカンソー、テネシーの4州が南部連合に参加し、ここに南北戦争が本格的に開始される。ただし、奴隷州でありながら、ケンタッキー、メリーランド、デラウェア、ミズーリの諸州は、合衆国にとどまった。また、バージニア州の西部は南部連合への参加を望まず、その結果、戦争中(1863.6)に独立してウェスト・バージニア州として合衆国に加盟する。 サムター要塞の攻撃に成功した南軍は、首都ワシントンを攻略して、一気に勝利をわがものにしようと軍を進めた。これに対し北軍は、この戦争を合衆国の統一を護持するための「防衛戦争」と受け止め、1861年7月に入って、ようやく常備軍の拡大、非常支出、50万の義勇兵募集などの戦時非常態勢の措置を講じた。両軍の最初の激戦となった7月の第一次ブルランの戦いで、数のうえで南軍をやや上回る北軍が大敗し、戦争の短期終結は困難であることが明らかになった。以後、戦争は長期化して互いに一進一退を繰り返し、北軍による南部沿岸一帯の封鎖のもとに、東部地域、中部山岳地域、西部ミシシッピ川地域を主戦場に多くの戦闘が展開されたが、戦局が北軍の優勢に転じ始めるのは62年9月のアンティタムの戦いのころからである。リンカーンはこの機を逃さず、9月22日奴隷解放予備宣言を発し、それは翌63年1月1日に奴隷解放宣言となって、この戦争での北部の大義を全世界に明らかにした。また63年11月19日に激戦地ゲティスバーグで彼が行った戦没者慰霊のための演説は、民主主義の理想を掲げたものとして有名である。 1863年の末ごろまでに北軍はミシシッピ川地域をほぼ制覇したが、北部の軍事的勝利を確実にしたのは、1年後の64年暮れにシャーマン将軍が敢行したアトランタからサバナに至るジョージア進撃作戦の成功であった。65年4月2日に南部連合の首都リッチモンドが北軍の手に帰した1週間後の4月9日、南軍のリー将軍がアポマトックスで北軍のグラント将軍に降伏し、4年にわたる内戦は終わりを告げた。 南北戦争を北部の勝利に導いた要因は多岐にわたるが、従来ややもすれば見落とされてきたのは、この戦争において果たした黒人の役割である。戦場だけに限っても、18万6000人余の黒人兵が正式に陸軍に籍を置き数々の戦闘に参加したが、そのうち13万3000人が奴隷州の出身であった。また、3万人の黒人兵が海軍で軍務に服した。そして彼らの死亡率は、白人兵と比べて35~40%も高かった。[本田創造]
南北戦争の本質
南北戦争は南北両地域間の武力抗争として戦われたが、その本質は前近代的な南部の黒人奴隷制度と北部の産業資本との矛盾・対立の暴力的爆発であった。それはマルクスの表現によれば、「二つの社会制度の間の、奴隷制度と自由労働制度の間の闘争」であり、またビアードは、「階級構成、富の蓄積と分布、産業発展の過程、および建国の父祖から受け継いだ憲法上の広範な変革を巻き起こした社会戦争であり、北部と西部の資本家・労働者・農民が、南部のプランター貴族を国家権力の座から追放した社会的大変革であった」と述べている。結局この戦争は、植民地時代以降、2世紀半近くにわたって強固に存続していた黒人奴隷制度を廃止し、以後、アメリカ資本主義が新たに開放された南部を包摂しつつ単一の広大な国内市場を基盤にして、全国的規模でいっそう発展することを可能にした歴史的条件を用意したという点で、世界史的意味でのブルジョア民主主義革命であった。南北戦争が「第二次アメリカ革命」ともよばれるゆえんである。また黒人に関して、彼らはこの戦争によって奴隷制度のくびきから解放され、法のもとでの自由を確かに獲得したが、それがどこまで真の自由たりえたかは別個の問題である。[本田創造]
引用・参考文献 https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%88%A6%E4%BA%89-108979 (コトバンク 南北戦争とは)(2018.1.27閲覧)