原 三溪
出典: Jinkawiki
原 三溪(本名富太郎)(1868年(慶応4)-1939年(昭和14)) 岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれた。 幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学んだ。 1888年(明治21)に跡見女学校の助教授になり、1892年(明治25)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。 原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めた。 実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行った。 1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの美術品収集、作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注いだ。 三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館内に収蔵されている。 そして現在もなお、三溪園は横浜市中区本牧にあり、春には桜の花見、梅雨には紫陽花、秋には紅葉とさまざまな角度から楽しめ、さらには貴重な歴史的建造物が多数あるため、連日たくさんの観光客でにぎわっている。