参勤交代2

出典: Jinkawiki

参勤交代の歴史

「参勤」とは、拝謁(高貴の人に面会することの謙譲語)することであり、中国では諸侯が天子に拝謁すること、日本においては、江戸幕府の将軍に拝謁するために江戸に出てくることをいった。また、東西の大名が交互に江戸に参府することから「参勤交代」という。


拝謁するという服属儀礼はどこの地域・時代にもあることだが、隔年の参府というのは特殊で、参勤交代の始まりは、豊臣秀吉の時代である。しかし、参勤交代の源流は、もっと早い時期であるといえる。交通史の専門家である九州大学名誉教授丸山擁成氏によると、


鎌倉時代:御家人の義務であった鎌倉番役、京都大番役、異国警固番役などの軍役負担

→室町時代:守護大名の京都集住や鎌倉公方の管下十ヵ国の守護大名の鎌倉移住

→応仁の乱後:戦国大名がその家臣に本城参勤を義務づける

→織豊期以降の参勤交代の再編


という形で発展している。これらが参勤交代の源流となり、その本質が服属儀礼であるとこがわかる。これらを考えると、参勤交代は、決して江戸時代や日本にのみの特徴的な儀礼ではないが、江戸時代における参勤交代は、隔年に江戸に参府し、江戸で生活するという特徴がある。

また、江戸時代の流れは以下のようになっている。


元和 元年(1615) 大坂夏の陣で豊臣家滅亡。諸大名競って江戸に参勤。

  同 3・4年頃  参勤が毎年から隔年に変化。

寛永12年(1635) 武家諸法度改定。第2条に参勤交代の規定あり。西国大名は3月末~4月初に江戸へ。東国大名は同時期に国許へ。(次の年はその逆)

寛永19年(1642) 譜代大名の参勤も命ぜられる。

享保7年(1722) 上米の制(幕府財政建て直しのため大名に対し高1万石につき米百石の上納を命じるかわり、参勤交代を在府半年、在 国1年半に緩和)

享保15年(1730) 上米の制廃止。参勤交代制も元に戻る。

文久2年(1862) 松平慶永・一橋慶喜らによる幕政改革で、参勤交代制改変(3年に1度に)

  3年(1863) 長州征伐を機に参勤交代制を復旧。諸大名これに従わず(実質的に制度崩壊)。



参考資料

・「参勤交代」 山本博文 1998 講談社現代新書

・「大名にとって参勤交代とは?」 http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub222.htm

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