参政権
出典: Jinkawiki
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参政権
参政権とは、国民が直接または間接に国政に参加する権利のことである。15条で、選挙権・被選挙権・国民投票権などの参政権を保障している。選挙権は、普通選挙、平等選挙、自由選挙、秘密選挙、直接選挙の5つの要件(原則)を備えなければならない。基本的人権の一つである。「参政権」の具体的な内容として、「公務員の選定及び罷免の権利」、「最高裁判所の裁判官を審査する権利」、「地方公共団体の特別法に同意する権利」、「憲法改正を承認する権利」が規定されている。
参政権の意義
国民は主権者であり、国の政治を決定する権限をもっている。実際には、有権者が投票する権利や議員に立候補する権利をもっているということにはなる。ただ、われわれが普段国の政治を決めている実感はない。それは、代表民主制のためだと言えるであろう。つまり、議員に国の政治のことは任せてあるので実感がないのである。本来は直接自分達で政策を決めていくのがよいのかもしれないが、日本のように人口が1億人以上いては、いっぺんに議論することも不可能である。また、政治的な手腕に優れた人物に国のことを任せた方が妥当な結論を導くことができるかもしれない。いずれにしても、日本では代表民主制が採られているのだ。そのような日本において参政権の定義を問われたら、参政権とは、国民が主権者として、直接又は代表者を通じて間接的に国の政治に参加する権利のことをいう、と答えることができよう。
参政権の歴史
参政権の性質あるいは根拠については、古くから対立する学説が存在していた。一方では、それは市民権に当然付随する属性あるいは機能だと考えられ、他方では、それは国家の公務に参与する特権であり、そのためには一定の財産ないし政治的能力、すなわち「富と教養」をもつ者のみが政治に参加すべきであると考えられた。確かに、古代ギリシアやローマの都市国家においては、市民は当然に民会に参加し、直接に立法や重要官職の選挙、外交関係の処理裁判まで行い、市民の参政権は最大限に保障されていたといえる。しかし同時に市民権は、市民権をもつ父親から生まれた男子にのみ限定され、女性や未成年者、多数の奴隷にはなんらの参政権もなく、同じ民族でも他の都市の市民には権利の保障がされなかったということを無視するわけにはいかない。その後ヨーロッパ中世の封建社会において身分制議会の制度が採用されるとともに、「代表なくして課税なし」というイギリスのことばが意味するように、参政権は土地所有に伴う封建的な特権とみられるようになった。いうなれば、国家に多額の税金を納める国民には一定限度の政治に対する発言権を保障するという考え方である。
このような二つの流れは、そのまま近代社会に受け継がれた。17、18世紀の市民革命の思想学説においては、参政権は国民固有の属性であると主張されている。1789年のフランス人権宣言の第6条には、「すべての市民は自らまたはその代表者によって法律の制定に参与する権利を有する。……すべての市民は法律の前に平等であるため、……等しくすべての公職につくことができる」と述べられていた。しかしその直後の1791年のフランス憲法では、財産によって市民を能動的市民と受動的市民に分け、主権を実際に行使できる者を能動的市民に限った。この能動的市民は全人口2600万人中約430万人にすぎず、さらに彼らが選んだ選挙人の資格を有する者は5万人弱にしかすぎなかった。したがって、市民の資格を制限することによって選ばれたエリートたちの間の平等が、実際には保障されていたにすぎなかったといえよう。
参政権の拡大
イギリスでは19世紀の初めまで選挙権がかなり制限されており、しかも長期にわたって選挙区割が改正されなかったため、産業革命によって発達したバーミンガムなどの都市が代表されず、選挙民の少ない腐敗選挙区あるいはポケット選挙区(制限選挙区)が多数存在し、なかには海中に没した都市から議員が選ばれるといった状況すら存在した。このような状況を改善するために1832年選挙法改正が行われ、選挙区割を改定するとともに、選挙資格を緩和し、有権者が約50%増加した。その後1918年には完全に男子の普通選挙が実施され、女性参政権も一部認められた。
日本では1889年(明治22)の選挙法で、25歳以上の男子で直接国税15円以上を納めている者に選挙権が認められたが、その数は人口の約1%の45万人にすぎなかった。その後1925年(大正14)に男子普通選挙が、第二次世界大戦後、1945年(昭和20)には20歳以上の男女に選挙権が認められた。なお今日、欧米諸外国では18歳への選挙権年齢引き下げが行われているが、日本ではその環境は熟していない。
女性参政権の歴史
日本で普通選挙が実現したのは、1925年(大正14)であった。しかし、フランス革命当時の欧米と同じように、参政権が付与されたのは男性のみであった。明治の末年からいわゆる大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権を求める気運が徐々に高まってくる。堺利彦、幸徳秋水らの「平民社」による治安警察法改正請願運動を嚆矢として、平塚らいてうの青鞜社結成を経て、平塚と市川房枝、奥むめおらによる新婦人協会(1919年・大正8)や、ガントレット恒子、久布白落実らによる日本婦人参政権協会(1921年・大正10、後に日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動を展開。続いて各団体の大同団結が図られ、婦人参政同盟(1923年・大正12)、婦人参政権獲得期成同盟会(1924年・大正13、後に婦選獲得同盟と改称)が結成、さらに運動を推進した。これらの運動は、戦前の日本において、完全な女性参政権の獲得と言う大目標の達成には至らなかった。しかし、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年・大正11)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年・昭和8)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院の猛反対で廃案に追い込まれた。第二次世界大戦後の1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされた。また、翌10月11日、幣原内閣に対してなされた、マッカーサーによる五大改革の指令には、「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていた。また、終戦後10日目の1945年(昭和20)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出する。同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開している。1945年11月21日には、まず、勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められる。次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)。1946年(昭和21)4月10日の戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。そして、同年5月16日召集の第90特別議会での審議を経て、10月7日憲法改正案成立となる(日本国憲法11月3日公布、翌1947年(昭和22)5月3日施行)。確かに日本の婦人運動は、戦争の激化により一時中断した。しかし、明治末年からの長い婦人運動苦闘の歴史を経て、日本女性の中には政治的権利を希求する意識が着実に醸成されていた。戦争終結後の数日目には、早くも新たな婦人団体が立ち上げられ、再び婦人参政権要求の声が上がり、翌年の総選挙で多数の女性議員が誕生したのも、そのような日本における婦人運動の成果であったと言えよう。
いろいろな選挙制度
私たちは、選挙により「代表」を選び、その「代表」を通じて政治に参加し、意思を反映させることになっている。「代表」は、私たちに代わって私たちのために政治を行う。つまり、政治の主役は、私たちなのだ。 立派な「代表」を選び出すために、次の五つの原則がある。
普通選挙:個人の納税額等の財力を選挙権の要件としない選挙制度のこと。
平等選挙:投票の価値を均等に扱う選挙制度のこと。
自由選挙:仮に選挙を棄権しても罰金等の制裁を受けない選挙制度のこと。
秘密選挙:誰に投票したかを秘密にする選挙制度のこと。
直接選挙:選挙権を有する者が公務員を直接に選ぶ選挙制度のこと。
日本の選挙制度の実際を見てみると、平等選挙については達成できていない面も見受けられるが、その他についてはおおよそ実現できているのではないかと思われる。ただ、秘密選挙については、実際深刻な問題を生じている。詳細は長くなってしまうので割愛するが、例えば、過疎地の選挙では誰が誰に投票したのか分かってしまう場合がある、名前が書かれた投票用紙で投票させられる場合がある(これは本当に巧妙な手口で行われているようです)など、信じがたい実態があるようだ。
≪参考文献≫
- 新版憲法講義(上) 小林直樹著 東京大学出版会
- 婦人参政権運動小史 児玉勝子著 ドメス出版
- http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/1503/sanseiken.html