同和問題2
出典: Jinkawiki
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概要
近年の初頭、支配者は年貢米の取り立てを容易にし、幕藩体制を維持するため武士や農民、町人(職人、商人、漁師、きこりなど)の下に「えた」「ひにん」という賤民身分を政治的に作った。賤民身分の人が居住していた所を「被差別部落」「未解放部落」などと言いい、現在では「同和地区」と呼ばれることが多くなった。同和問題は、同和地区の人が同和地区に生まれたというただそれだけの理由で、本人には責任のないことで、人間として幸せに生きていく願い・権利を不当に踏みにじられ、社会的不利益を被っているという事実である。それは長い間、経済的、社会的、文化的に低い状態に置かれることを強いられ、また基本的人権を一方的に侵され、今なお続く日本固有の人権問題である。このような部落差別には2つの側面がある。1つ目は「心理的差別」。これは自分たちの心の中に潜在している差別意識から生まれてくるものである。同和地区の人を見下し、軽蔑し、嫌悪、疎遠するような感情があるため、同和地区の人との交際を拒んだり、約束した結婚を一方的に破棄するなどといったことがある。他にも、採用にあたって身元調査をし同和地区の人を排除した企業があった。これらが「心理的差別」である。2つ目は「実態的差別」、同和地区の人たちの生活の中にある差別だ。かつて、同和地区の生活環境は劣悪で狭く老朽化した住宅に密集していた。陽光と通風を遮られ、不衛生な環境で生活していた。生活環境は今では全体として改善されてきているが、教育や仕事などでの差別はなくっていない。高校への進学率は低く、仕事は不安定な状態である。生活保護を受給している世帯も多い。これが「実態的差別」だ。そして、これら2つは相互に因果関係を保って、差別を温存・再生産してきた。同和地区の劣悪な実態を見て、人々の差別意識は強められた。差別意識のため、同和地区の人は多くの会社から締め出され、不安定な仕事にしか就けず、その結果豊かな生活とは言えなかった。よって、貧しい生活実態が差別意識を強める、このような悪循環が続いてきたのであった。
部落と同和
そこに生まれてきたというだけで差別を受けてきたことを部落差別と呼び、部落問題である。これが最近では同和と呼ばれるようになった。同和という言葉は、1926(昭和1)年、昭和天皇が即位するときの勅語のうち「人心惟レ同シク民風惟レ和シ...」からとったものと言われ、1941(昭和16)年に、「同和奉公会」が作られたことに由来する。同和奉公会は「大政翼賛会」(1940年に組織された国民統制組織)に呼応し、従来の「中央融和事業協会」を改組したものである。部落差別による不和や緊張を和らげようという融和な考えが「同和」という言葉の根底にあるのだ。よって、戦後になって同和地区、同和教育、同和問題などという表現が行政上の公的な用語として用いられることが定着し始めたのだ。
同和地区の数
同和地区の数は、かなり前から全国に6000、人口では300万人と言われてきた。同和地区のていぎが異なっていたり、地方自治体の報告がまちまちなため正確な数字は分かっていない。1987(昭和62)年、国が同和対策事業の対象地区として認定・指定している数は4603にものぼる。また、歴史的・社会的に差別を受けてきた地区なのに、地方自治体からの申請がなく、国の認定・指定さえされず、事業が行われていない地区が全国に約1000以上あると言われている。
狭山事件
同和に関するある事件が起きた。それは1963(昭和38)年5月1日、埼玉県狭山市で高校一年生の女生徒が下校の途中で殺害された。そして、5月23日、近くの同和地区に住む石川一雄さん(当時24歳)が別件で逮捕された。当初犯行を否定していたが、知り合いの警察官に説得され、自分の行為であると認め、1964(昭和39)年3月、浦和地方裁判所で死刑判決を受けた。石川さんは二審では犯行を否定したが、1977(昭和52)年10月、最高裁判所は、上告を棄却し無期懲役の判決を下した。部落解放同盟は、次のような理由でこれを典型的な差別判決と捉えている。 (1)犯人逮捕に失敗した警察は同和地区に徹底的な見込み調査をした。 (2)石川さんは知り合いの警察官に「自供したほうが罪が軽くなる」と説得され、それを信じたこと。 (3)犯人断定には不十分な証拠しかないこと。 石川さんは1994(平成6)年12月に仮出所したが、彼らは無実を主張しており、問題に終止符が打たれたわけではない。
参考文献
『同和問題の基礎知識』 小森哲郎著 明石書店
『日本における差別と人権』 社団法人 部落解放・人権研究所著 解放出版社
ハンドル名:京都