名誉革命2
出典: Jinkawiki
カトリックと王国専制の復活をめざしたチャールズ二世は、革命の成果を維持し、国教会の信仰を守ろうとする議会を対立した。議会は、国教会の信者以外の者が公職につくことを禁ずる審査法や不法な逮捕を禁じた人身保護法を制定して対抗した。この過程で、王権に寛容なトーリー党と批判的なホイッグ党の二つの党派が成立し、のちの二大政党制の基礎が築かれた。議会は次に王となったジェームズ二世もカトリックの復活をはかっているとして、1688年にフランスに追放した。そのうえで、女王メアリとその夫でオランダの総督であったウィレム共同統制の王(メアリ二世とウィリアム三世)として迎えた。 二人は議会が提出した王権を制限する「権利の宣言」を「権利の章典」として制定した。これにより議会が主権をにぎる立憲王政が確立した。この革命で確立した体制は、以後一世紀以上にわたって、イギリスの政治や社会の基本となった。 1707年、スコットランドが併合され、大ブリテン王国となった。1714年、アン女王が死去しステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーファー選帝侯がジョージ一世として迎えられた。 英語が話せなかった王はあまり議会に出席せず、「君臨すれども統治せず」という原則が確立し、さらにホイッグ党のウォルポール首相のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立した。
参考文献 帝国書院 新詳 世界史B