喜望峰
出典: Jinkawiki
喜望峰
南アフリカ共和国南西端の岬。ケープタウンの南48キロメートルに位置する。1488年、ポルトガル王の命で航海中の B =ディアスが発見し、「嵐の岬」と命名。王はインド航路発見の希望を抱き、「喜望峰」と改名。97年、バスコ=ダ=ガマはこの岬を回って東航、翌年インドに到達した。ケープタウンは南アフリカ共和国立法府の首都。南アフリカ発祥の地で別名「マザー・シティー」という。ヨハネスブルグに次ぐ南アフリカ第二の都市。
名称
英語名は「Cape of Good Hope」で直訳すると「希望岬」となり、中国語では「好望角」と表記する。諸説あるが、「喜望峰」が一般呼称として定着したのは誤植によるものと考えられている。
位置
喜望峰はケープタウンから50km南へ延びたケープ半島の突端にある。半島の東はフォールス湾である。また、喜望峰がアフリカ大陸の最南端といわれることがあるが、実際には東南東へ約150km離れているアガラス岬が最南端である。
歴史
1488年 - ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達し、Cabo Tormentoso(「嵐の岬」)と命名したが、後にポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と名付けた。 1652年 - オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが植民、後のケープタウンとなる。 1806年 - ナポレオン戦争中にイギリスが接収し、1814年の英蘭協定でイギリス領となる。 アフリカ大陸南部は、最初は狩猟民族のサン族とコイ族などのアフリカ最古の民族が住んでいたが、15世紀頃、バントゥ系のアフリカ人が南下して全域にわたって定着しコイサン族は中東部のサバンナや砂漠に追われた。ヨーロッパ人の入植はかなり後で、オランダ人のヤン・ファン・リーベックがオランダ東インド会社の中継地としてケープタウンに居留地を作ったのが1652年。これを機にオランダの農民が入植をおこない、ボーア(オランダ語で農民の意)と称して拡大していった。 17世紀には、オランダに亡命していたフランス人新教徒(ユグノー)が多数移住した。入植者の増加に伴い植民地は内陸に向けて拡大し、バントゥ系アフリカ人の一部族のコサ族と衝突した。18世紀~19世紀初頭、ナポレオン戦争中、イギリスは喜望峰を占領し、1803年に、いったんは返還するが、再び英仏が開戦するとオランダの制海権を抑えるため、1806年にケープ・タウンを再度占領した。その後第一次ボーア戦争、第二次ボーア戦争を経て1902年イギリスが勝利で終結。戦後ボーア人に自治権を与え、1910年に南アフリカ連邦が成立、その後の曲折を経て現在に到っている。
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