四日市喘息

出典: Jinkawiki

当時、最初に大気汚染が深刻になり、人間の生命まで脅かす事態になったのは、三重県四日市市であった。

四日市では、1957年(昭和32年)から石油の精油所が次々に建設され、石油コンビナートが完成した。

このころから四日市沖合の伊勢湾でとれる魚が異臭を放つようになったのである。魚の値段は下がり、漁民に打撃を与えました。被害はやがて海から大気に及んだ。石油コンビナートから出る亜硫酸ガスなどの有毒ガスと悪臭が市民を脅かしたのである。

1959年(昭和34年)ころから、石油コンビナートと隣接する塩浜地区で喘息患者が激増した。「四日市喘息」と呼ばれた。塩浜地区の小学校、中学校、高校では悪臭のため夏でも窓が開けられない状態になった。子どもたちは、マスクをして登校するまでになったのである。

念のために言っておくと、このころ学校にも一般家庭にもエアコンなどはない。夏は窓を開けはなって風を通しながら授業をしていたのである。それだけに、窓も開けられないのは、焦熱地獄であった。

コンビナートの個々の企業は、法律にもとづいた排出基準を守っている。ところが、そうした企業が集中していると、個々の企業から出た煤煙、排煙に含まれる硫黄酸化物などの量は膨大なものになり、それが人体に悪影響を与えたのである。

しかし、石油コンビナートのおかげで繁栄していると考えた地元の四日市市や三重県は、抜本的な対策をとろうとはしなかった。被害が放置され、喘息患者は増え続けた。喘息のために亡くなるひとも出たのである。

1967年(昭和42年)9月になって、喘息患者がコンビナートの中の6者を相手どり、損害賠償を求める四日市公害訴訟が始まった。

この裁判は1972年(昭和47年)7月、原告が勝訴し、その後、原告以外の患者も同じように救済されることになった。

患者たちは、裁判に訴えなければ、被害の救済を受けることができなかったのである。加害者の企業ばかりでなく、行政の怠慢さが問われる公害であった。


参考文献

○池上彰(2008)『そうだったのか!日本現代史』集英社文庫

○後藤武士(2009)『読むだけですっきりわかる政治と経済』宝島社


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