国連海洋法条約

出典: Jinkawiki

目次

目的

海洋資源の配分と採掘の規制、および海洋環境の利用と保護を枠組みとし、すべての人間が海洋環境を平等に利用し、海の恵みを等しく受けることを目指して設定された。これは最も広範な海洋関連条約で、海洋環境の保護が最重要である枠組みになっている。


経緯

海洋法が発展していくきっかけとなったのは中世後半、大航海時代のスペインとポルトガルが全世界の海洋二分割をした頃である。古代から中世前半にかけては、海洋は万人の共有物であると考えられ、海を領有する主張はなされなかった。その後、グロティウスなどが海洋に関する考えを主張し始め、18世紀に入ると、領海に関する問題への取り組みが活発化したのである。1900年代は、貿易や遠洋漁業の拡大などによって海洋の利用がさらに広がるとともに、漁業権、海峡の通航権、軍艦の地位など多くの点において、各国の立場に違いが生じ、個々の法制度では対応しきれなくなった。そこで1930年、海洋に関する国際慣習法の法典化に向けて、国際連盟のもとでハーグ国際法典編纂会議が開催された。約50か国が参加したこの会議では、領海の幅員をめぐって意見が対立し、条約の採択には失敗してしまう。しかし、この会議を皮切りに、世界共通の海洋法制定に向けた具体的な議論が始まったのであった。

国連海洋法条約の成立の経緯なかでも海洋支配のあり方を考えるのに重要な契機となったのが、第2次世界大戦後の1945年、トルーマン米大統領が行ったトルーマン宣言(大陸棚の海底と地下の天然資源に対する管轄権や沿岸の漁業を規制する水域を主張)であった。この宣言以降、多くの国が追随する形で一方的に沿岸海域の管轄権を主張するようになったことから、国際連合は1985年に第1次国連海洋法会議を開催し、ここで「領海と接続水域に関する条約」や「公海に関する条約」など、後の国連海洋法条約のベースとなる「ジュネーブ海洋法四条約」が採択された。ただ、この会議では領海の幅は定まらず、第2次国連海洋法会議(1960年)でも合意に至らなかった。さらに、1960年代からはアフリカや中南米の新興国が、距岸200海里までもの領海または排他的経済水域(EEZ)を主張するようになる。こうした流れのなかで1973年にスタートした第3次国連海洋法会議では、10年間という長い月日をかけて各国が粘り強く合意を積み重ねた結果として、1982年に国連海洋法条約が採択された。

成果

この条約の数多くの成果のうちのひとつは管轄権の範囲の定義である。12海里までの自国の管轄水域である領海と、200海里までの自国の漁業権と環境の保護義務を定めた排他的経済水域を設定したのである。また、国連海洋法条約の大部分の規定は海洋や海洋資源の開発や利用に関するものだが、この条約には海洋環境の保護に関する事項も含まれている(第12章 192-237条)。それらには「すべての国家は海洋環境を保護、保全する義務があり(192条)、汚染を防止し、軽減しおよび規制するために必要な政策をとらねばならない」と記されている。この保護、保全に関係するところでは、「汚染とは有害なものと同様に、有害と予測されるものも含む」と表現されていて、予防措置の重要性を示している。汚染には海洋環境に害をおよぼす可能性があるすべての技術の産物や副産物と外来動植物が含まれている。そして海洋だけでなく、陸上や大気起源の汚染物質も含まれている。この条約には生物多様性に関する事項はないが、種の保護は各国の義務とされ、「希少又はぜい弱な生態系及び減少しており、脅威にさらされており又は絶滅のおそれのある種その他の海洋生物の生息地を保護し及び保全するために必要な措置を含める」(195条5項)と定められている。また、漁業の管理に、生物種間の相互関係や生態系についての考慮が重要であるという表現がある程度含まれている。


参考文献

『海の生物多様性』 大森信、ボイス・ソーンミラー著 築地書館 2006年

『第3節 海洋法条約の採択と新海洋秩序への対応』 http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa57/ind020203/frame.html

(sumireyakko)


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