夏目漱石2

出典: Jinkawiki

目次

夏目漱石

夏目漱石(本名・金之助)は1867年江戸末期に名主を職としていた夏目小兵衛直克と千枝の末子として江戸の牛込馬場下で生まれた。牛込馬場下横町は、1818年に幕府が朱引で示した江戸の範囲「御符内」でも西のはずれに位置し、武士が武芸の腕を磨いたという高田馬場からも近い場所にあった。 漱石が生まれた年は明治元年と年号があらたまるそのぜんねんいあたる。徳川幕府が崩壊し、明治政府が誕生する大きく混乱した時期に生まれたのであった。当時は今日では信じられない迷信が人々の生活の中にとけこんでいた。たとえば、「申の日の申の刻(午後4時ごろ)に生まれたものはよくいけば非常に出世するが、悪くいけば大泥棒になる恐れがある。大泥棒にならないようにするためには、名前の金篇のついた字をつけるといい」ということがまことしやかに言いふらされたいた。漱石が生まれたのはその申の日で、しかも申の刻であったため名を金之助と名付けられた。

夏目家の努力

夏目家は裕福であったがそれにはいろいろな努力がある。夏目の家系をみると何代目か前の先祖が武田家につかえ、それから数代後に武田勝頼が没落したので、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、更に後武州豊島郡牛籠村にかくれて郷土となった。1702年4月、兵衛直情のとき名主に任じられた。夏目家は「草分名主」だと言い伝えられたが、正確には疑問である。夏目が小学生のころに遠い祖先に裏切り者がいて、武田家を滅亡を早めたと聞き心を傷つけ、喧嘩の相手にそれを言われると色を変えて逃げたなどというエピソードがある。しかし、漱石には幼きも正義感と恥をもっていたということはこのエピソードでわかる。 漱石の祖父直基は道楽者で死ぬ時も酒の上で頓死したといわれるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。そのため漱石の父直克は夏目家の家運を盛んにすることに努力し、その結果相当の財産を得ることができた。

作家への道

夏目漱石が作家としての人生をスタートしたのが1904年に書いた作「吾輩は猫である」である。 漱石はイギリスに留学して、その後帰国してから講師として働き始めるが不評であり、生徒である藤村操の入水自殺が原因で精神病になった。漱石は衰弱した精神を和らげるために小説を書いてみないかと高浜虚子に勧められて書いたものが「吾輩は猫である」である。 この作品が好評であったため漱石は次々と作品を発表していくようになった。

主な作品

・吾輩は猫である

・坊ちゃん

・三四郎

・草枕

・夢十夜

・それから

参考文献

・「人と作品③ 夏目漱石」 編.福田清人 著.網野義紘 清水書院

・「文豪・夏目漱石ーそのこころのまなざし」 編江戸東京博物館・東北大学                                                                      name.Dさん


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