大塩平八郎の乱
出典: Jinkawiki
江戸後期、陽明学者で大阪町奉行与力の大塩平八郎が、救民のため挙兵した反乱のことである。天満、北浜を中心に大阪市街地の約5分の1を焼失、2万戸近くが被災し、死傷者270万人余りに及んだが、民衆は大塩らに同情的であったとされる。
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背景
1828年(文政2年)の九州大洪水により、断続的に天災による諸国異作が続き、1836年(天保7年)は未曾有の大飢饉であった。このうち続く凶作・飢饉により米価高騰し、ここに幕府による米の買占めなどの影響もあり、大阪市中には飢餓による死者が続出した。しかし、天下の台所である大阪にはもちろん米や食糧はあり、米問屋や商家にはたくさん米や食糧があった。庶民がけが飢え死んでいくという状況が続いていた。 もと大阪町奉行与力であり陽明学者であった大塩平八郎は、こうした市中の惨状を無視できず、養子格之助を通じて、しばしば救済策を上申するも拒否された。しかも、当時の担当者である大阪町奉行跡部山城守は適切な対策を出せないばかりか、翌年に予定されている新将軍宣下の儀式の費用のために江戸廻米の命令を受けると、市中の惨状を無視してそれを応じた。さらに、市中の大豪商の賑恤もこのときにはふるわなかった。こうした大阪町奉行諸役人と特権豪商に対し、大塩平八郎は彼らを誅罰してその隠匿の米穀、金銭を窮民に分け与えるため挙兵を決意した。
大塩の乱
大塩平八郎は、あらかじめ自分の蔵書を売却して金に換え、それを近隣の農民に分け与え、挙兵への参加を工作していた。そして1837年2月19日、大塩は幕政批判の主旨の檄文を飛ばし、「窮民」の旗を掲げて、私塾「洗心堂」に集う門弟20数名とともに、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出した。大塩一党は川崎東照宮から天満橋筋を、近隣の住民たちに仲間になるように呼びかけながら南下し、中には武器らしい武器を持たず鍋や釜などを持って参加する者もいたという。そうこうしているうちに大塩一党は300人ほどになっていたが、鎮圧に出動した幕府勢と小競り合い程度の市街戦を繰り返したのみで、小一日持ちこたえず四散する。兵火は翌日の朝まで燃え続け、大阪市中の5分の1を焼いた。 首謀者大塩父子は約40日後、大阪市中に潜伏しているところを探知され、自刃。この乱は、幕政の中枢の都市大阪で、しかも与力であり著名な陽明学者であった人物が首謀したことにより、その影響力は大きかった。
大塩の乱後の情勢
大塩の乱ののち、一般民衆の中には「大塩残党」を名乗る越後(新潟県)柏崎の生田万の乱、備後(広島県)三原の一揆、摂津(大阪府)能勢の山田屋大助の騒動など、各地で大規模な騒動が続発した。一方、幕政担当者は、江戸日本橋に建てられた大塩平八郎らの捨て札(処刑者の罪状を書いて日本橋のたもとに建てておく札のこと)は重罪人であることを強調するためか厳めしい造りであったといわれている。しかも、大阪での処刑者の捨て札が江戸に建てられることは、この事件が初めてである。これは大塩に対する同情・共感がかなりあったためといわれており、それゆえその罪状を周知徹底させる必要があったため厳めしい造りの捨て札が江戸に建てられたのだといわれている。 そのことからもわかるように、大塩の乱が幕府に強い不安と衝撃を与えたといえる。そして、この事件を契機に幕政担当者は天保の改革に取り組むことになるのである。
引用文献
藤田覚 1998 天保の改革 吉川弘文館
渡邊靜夫 1994 日本大百科全書3 小学館
ハンドル名:クリフ