大宝律令2
出典: Jinkawiki
大宝律令
701年に唐の法律にならって作られた全国を支配するしくみ。律令政治の基本法。「律」6巻、「令」11巻からなる体系的な法典で、律は刑罰法、令は教令法を意味している。
◆内容
この律令の基盤をなすものは、公地公民と班田制であって、中国の均田制を模範としたものであった。6歳に達した良民の男には2段、女はその3分の2の口分田を配給されるというものであった。 大宝律令は、当時の日本の社会から隔絶した高度な統治技術を含んでおり、役民が逃亡した場合、官僚制の機構・中央と地方を結ぶ通信施設、文書行政のシステムを発動して、逃亡人を追捕・処罰し、代替人を貢上させる一連の処置が、律令の各篇にわたって詳細に体系的に規定されていたという。そのほとんどが唐律令から継受したものである。このように、律令は直接人民を対象にしたものではなく、天皇の臣である官人が民を教導ための規範であり法であったという。こうした律令体制により日本の政治の集中と統一をもたらした。
・身分階級
律令は従来の身分制度を成文化したもので、部民・奴婢を所有した支配階級は位級をもち国家の高級官僚の官職を独占した。その下に百姓・公民などと呼ばれた一般の良民があり、最下級の身分としては品部・雑戸などの雑色人と家人、奴婢などの奴隷が存在していた。部民は公民になったとされたが、その公民が律令制において国家に負担する課役の性質は、部民の負担に変わりないものであった。こうしたことからは、大化の改新以前の階級関係は、律令制によって本質的に変化してはいなかったといえる。
・税制
律令制の直接の基礎をなした階層は百姓・良民・公民と呼ばれる農民であった。公民は、租調庸および徭役を負担する義務があり、「調庸の民」と呼ばれることさえあった。また、律令国家の税制は公民の農業生産力が低劣であったがために、田租よりも公民の労働力自体を徭役労働として徴することに主要な基礎を置かざるをえなかった。農民の低い生産力と重い負担は農民の手に剰余生産物を蓄積することを困難にし、農業からの手工業・商業の分離が発達しなかったとの見解もある。そのため、口分田の他に賃租による小作地からの収入および墾田の収穫をあわせても、農民家族の生活資料をまかなうのに十分ではない状態もしばしばあったといわれている。
◆成り立ち
持統の主導のもとに新しい律令の編纂事業がすすめられ、700年まず「令」法典が、続いて701年に「律」法典が完成した。これらをあわせたものが大宝律令である。編纂に加わったのは、天武の皇子刑部親王を総裁に、藤原不比等・栗田真人ら19名、うち中・下級官人には渡来人とその子孫が多かったとされる。「大宝」の年号と同時に大宝令が、翌年に大宝律が公布され、その年の10月には律令そろって施行された。「大宝元年を以て、律令初めて定まる」や「律令の興り、けだし大宝に始まる」と回顧されるのは、大宝律令の歴史的意義を表現しているともいえよう。また、「日本」の国号が正式に定められたのも、おそらく大宝律令においてだったとも考えられている。このように日本が律令法典を編纂できたのは、当時の日本が中国に朝貢はするが冊封はされていなかったこととも深く関係していた。
参考文献
「日本史概説Ⅰ上」1955 岩波全書 石母田正 松島栄一
「大系 日本の歴史 3古代国家の歩み」 1988 小学館 吉田孝
「岩波講座 日本の通史 第4巻」 1994 岩波書店 安江良介