大黒屋光太夫

出典: Jinkawiki

伊勢の船頭。1782年、伊勢から江戸へ向かう途中で遭難した。 江戸時代の日本人で太平洋を漂流し、アリューシャン列島に漂着してロシア人であるラクスマンに救助された。 ペテルスブルクまで行って時のロシア皇帝エカチェリーナ2世に謁見した日本人である。 彼らは1782年12月、伊勢白子港から江戸に向けての物資を運ぶ神昌丸で船出したが、遠州沖で嵐に遭い、漂流した。 アムチトカ島に漂着した後、ロシア人に伴われてシベリアを横断し、9年後の1791年にペテルブルクにたどりつく。 白子港を出たときの乗組員は全部で17人と猫が1匹であったが、途中壊血病で死んだり、イスクーツクでロシアに帰化したりして、ペテルブルクに着いたのは船頭の大黒屋光太夫と船乗磯吉の二人だけになっていた。二人をペテルブルクに連れてきたのはキリル=ラクスマンで、この二人を日本に帰すことで鎖国中の日本と交易の機会を作ることをエカチェリーナに進言しようとして二人を連れてきたのである。光太夫と親しく接見したエカチェリーナ(その時62歳)、鄭重に彼を扱い、帰国を認めた。光太夫たちはアダム=ラクスマン(キリルの子供)と同道して日本に戻ることになった。これがラクスマンの日本来航の理由である。 ラクスマンといっしょに日本に戻った光太夫と磯吉は1793年に江戸に入り、将軍徳川家斉に謁見、その体験を報告した。その報告を聞き出し、記録したのが桂川周甫の『北槎聞略』である。二人は江戸に屋敷を与えられたが、日露の交易の開始には役立つことができなかった。

<参考文献> ・野澤伸平『日本史用語集』 2016 山川出版社 ・山下恒夫『大黒屋光太夫』-帝政ロシア漂流の物語- 2004 岩波新書


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