天保の飢饉
出典: Jinkawiki
天保の飢饉
飢饉
飢饉とは、農作物が実らず食物が欠乏・不足して、人々が飢え苦しむことであり、食物以外でも必要な物資が著しく不足する場合にいう。飢饉の直接的な原因としては自然災害によると考えられるが、基本的な原因は政治・社会・経済的体制の問題と関連していて、その歴史や、現われ方については各地域によってさまざまであるといえる。飢饉の発生に重大な関係をもつ直接的な原因としては、冷害、干ばつ、長雨、日照り、風水害、虫害(ウンカやバッタなど)、地震、火山の噴火など自然災害による凶作に基づく。農業技術がまだ発達してなく、生産力の低い段階であるほど、自然条件の変化によって及ぼされる影響が大きいと考えられる。しかしながら、原因の一つでもある政治・社会・経済的な問題として、上に立つ者(為政者)の厳しい政策が飢饉をより激化させてきたということも、飢饉を考えていく上では重要な意味を持つ。
天保の飢饉
天保の飢饉は1833(天保4年)~1839年の7年間にわたり発生した飢饉で、寛永・享保・天明に続く江戸4大飢饉の一つである。寛永の飢饉を除いて江戸3大飢饉の一つとも言われる。その主な原因としては洪水や冷害などの相次ぐ異常気象による。この飢饉は全国的に広がり、特に奥羽の被害は大きかったとされている。この前兆としては、1818年~1830年に既に冷害や水害、疫病の流行が続出していたという。被害はまず東日本を中心として不作が続き、奥州に大洪水そして関東に大風雨が発生した。平年作の年もあったというものの、1835年には東北と関東地方で凶作となり、1836年には中国と九州地方にまで拡大した。その後は少し回復を見せたようだが、虫害や疫病などが続きまた凶作となってしまい、被害は拡大していったとされている。これにより、多くの餓死者が出て、また米価が急激に上がってしまったために、百姓一揆や打ちこわしが頻繁に起きた。1837年の大塩平八郎の乱もこの飢饉のさなかに起きた。幕府は御救小屋(おすくいごや)を江戸市中21箇所に設けて、5800人を収容したという。この他にも救済策として米の給与、酒造の制限、小売値段の引き下げ、囲い米の放出や隠米の禁止等行ったが、十分には機能しなかった。自然災害として始まった天保の飢饉は、社会の中で作り出されていった様々な矛盾をより拡大させていき、幕藩体制を大きく揺さぶったとされている。
参考文献
http://100.yahoo.co.jp/detail/
日本史用語集 山川出版