天安門事件

出典: Jinkawiki

 1989年中華人民共和国において学生運動に同情的であった胡耀邦の死をきっかけに天安門広場に集まった学生たちを,中国共産党の軍隊が突入して解散させた事件。中国共産党による学生弾圧で、国内では六四政治風波ともいわれる。


目次

鄧小平の改革・民主化運動・胡耀邦の失脚

 毛沢東の押しすすめていた「文化革命」中に失脚していた鄧小平が復活し、1979年には実質的な権力を握った。その後1981年の共産党中央委員会総会で、鄧小平の忠実な弟子であった胡耀邦が党主席(のち総書記の名称)に就任した。鄧小平はあえて表向き最高ポストの主席にはならず、副主席として、黒幕として党の主導権を握る。以後日本のマスコミは鄧小平を「中国の最高実力者」と呼ぶこととなる。鄧小平は経済の「改革・解放」政策を実行した。農業の集団化をやめさせて生産責任制を取り入れたり、海外の企業からの投資も認めた。こうした改革のにより、国民の生活は良くなったが、海外との交流が増えたために「言論の自由」を知る中国人が増えた。

 1978年以降、知識人や学生が民主化を求める運動を実行し始め、北京中心部の町の壁には「民主の壁」と呼ばれる民主化を求める壁新聞が張り出された。これを「北京の春」という。鄧小平は、この壁新聞が毛沢東批判・文化大革命批判にとどまってるうちは黙認していた。しかし、翌年に鄧小平が実権を握ると、今度は鄧小平の批判が出たためにこの北京の春を弾圧し始めた。1981年には、軍人作家の白華が書いた映画のシナリオ・セリフが中国共産党のイメージを壊すなどの批判が相次いだ「苦恋」事件が起きる。ただしこのときは鄧小平は問題を大きくすることはなかった。その分、中国共産党の保守派の不満がたまり、1983年には「改革・開放」によって資本主義国から汚れた思想が入ってきて国内汚染されている、だからこれを一掃しなければという「精神汚染」一掃運動が起きる。この運動に対しては改革派の胡耀邦が間もなく中止にさせたが、民主化・自由化を巡って中国共産党内で改革派の胡耀邦と保守派の古参幹部との対立が表面化した。

 その後も民主化の動きは続き、1986年12月、安徽省の科学技術大学の学生が民主化を求める集会を開いた。当初は、学校生活の不満を訴えるレベルだったものが次第に「民主」や「自由」を訴えるようになった。この運動はあっという間に約150の大学に広がったが、胡耀邦総書記は弾圧することなくこの運動を見守った。これに対し中国共産党の保守派の人たちは、「民主化」など共産党の独裁を否定しかねない「ブルジョア自由化」だとして批判した。鄧小平もこれに同調し、翌年1987年1月、胡耀邦は党の総書記を辞任した。後任には鄧小平と同じく胡耀邦の弟子である趙紫陽が選ばれた。


胡耀邦の死に始まる運動

 胡耀邦は党総書記解任2年後の1989年4月に死去した。4月15日、北京大学で胡耀邦の死を悼む追悼集会が学生たちにより開かれた。4月17日、中国政法大学の学生約500人が大学から天安門広場までデモ行進した。腐敗のはびこる中国共産党内で、胡耀邦はそんな噂が全くない清潔な人物であったため、天安門広場に集まる学生・市民の数は増えるばかりだった。はじめは胡耀邦を追悼し、再評価してほしいという要求を掲げただけであったが、次第に要求は言論の自由の保障などを求める民主化運動に発展した。22日、共産党主催の胡耀邦追悼大会が開かれたが、胡耀邦の再評価はされなかった。要求が認められなかった学生たちは運動をエスカレートさせる。各地の大学で学生たちが無期限の授業ボイコットや、横断的な大学自治連合組織もつくられた。中国共産党保守派は4月26日、この学生運動を「動乱」と決めつける厳しい姿勢を打ち出し、人民日報の社説にも「動乱に反対しよう」と掲載された。共産党用語で動乱とは、共産党に反対する反革命を意味する。共産党をひっくり返すつもりなどなかった学生たちはこの社説に大きな衝撃をうけた。翌日5万人の学生が、わざわざ「共産党擁護」の横断幕まで掲げて社説の撤回を求めるデモ行進をした。趙紫陽総書記は学生の運動に理解を示していたが、動乱認定の際は北朝鮮訪問中であった。胡耀邦にしてもそうであるが、趙紫陽も経済の「改革・開放」を進めるためにはある程度の社会の民主化が必要であると感じていた。このことから、趙紫陽は社説の撤回をめぐって保守派と対立する。しかし、共産党トップといえども最高実力者の鄧小平が決めた以上は掲載の撤回はなかった。

 この時期、ソ連と東欧に政治の民主化という大きなうねりが押し寄せてきており、鄧小平や共産党の保守派はこのうねりが中国に到来することを恐れていた。また、ソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問することとなり、世界中から報道陣がやってきていた時期でもあった。報道陣は民主化を求める学生運動とそれに対する中国政府の対応に注目していた。学生たちが天安門広場で座り込みを実行していたため、中国政府はゴルバチョフ書記長の歓迎式典を空港に移した。メンツ重視の中国政府にとっては相当の屈辱であった。5月16日、趙紫陽総書記とゴルバチョフ書記長の会談が行われ、その様子は生中継となった。中国において鄧小平が最高実力者であることは国民みんなが知っていたが、この放送において趙紫陽は「最重要事項は全て鄧小平が決定する」という趣旨の発言をした。これは、国民はもちろん多くの共産党員ですら知らない共産党の秘密であった。

 趙紫陽の爆弾発言を受けて、誰が一切の責任者かを理解した国民・デモ行進の人々によって翌日には天安門広場とその周辺は埋め尽くされた。また、このデモには中国共産党の職員も堂々と職場名を名乗って参加をしていた。19日未明、趙紫陽は天安門広場の学生たちの前に現れたが、その後すぐ失脚した。20日、北京市には戒厳令が発令され、中国共産党内と天安門広場前の学生・労働者それぞれが強硬派と穏健派に分かれた。


強硬弾圧

 共産党内では強硬派が主導権を握り、1989年6月4日未明には天安門広場に集まっていた学生・労働者を軍隊が取り囲んでいた。インターナショナルという共産党の集会でおなじみの労働歌を学生たちが歌い終えると、赤色の信号弾が打ち上げられ、軍隊が一斉に広場に突入した。中国の軍隊は国家の軍隊ではなく、「人民解放軍」という共産党の命令にのみ従う軍隊である。ゴルバチョフ書記長の訪中取材のために世界中からやって来ていた報道陣の前で、中国共産党は学生・労働者を武力で弾圧した。中国政府の公式発表によると、兵士を含めて死者319人、負傷者9000人となっている。死亡者数が少なすぎるという批判もあるがそれを裏付けるデータもなく、また、ここで死亡したことが発覚すると葬儀・埋葬が出来ず、遺族までもが弾圧を受けるために遺族が偽りの死亡届を出す場合もある。この事件を受けて当時のミッテラン仏大統領は「自由の名の下に立ち上がった若者に対して発砲するまでになり下がった、そんな政府に未来はない」と言い切ったという。胡耀邦、趙紫陽と二人の弟子を失脚させた鄧小平は、改革派の江沢民を総書記に就任させた。江沢民総書記のもと、その後の中国は「改革・開放」路線を進めて「社会主義市場経済」という奇妙な体制になったり、反日教育に力を注ぐこととなる。


参考文献

田村宏嗣 2009『キーワード30で読む中国の現代史』 高文研

池上彰 2007『そうだったのか! 現代史』 集英社文庫


編集:sunfl


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