天正遣欧使節
出典: Jinkawiki
ヴァリニャーニの勤めで九州の大村・大友・有馬3大名がローマ法王に送った少年使節。伊東マンショ・千々石ミゲルの二人が正使、原マルチノ・中浦ジュリアンが副使。1582年に出発し、1590年に帰国。
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伊東マンショ(祐益:すけます)
1570~1612 大友宗麟の妹の孫。 マンショが10歳の頃のある日、道ばたに座り込んで、地面に棒きれで絵を書いていた。その時、イエズス会のペドロ・ラモン司祭から「何をしていますか」と声をかけられ、司祭は「コンペイトウ」を与えた。その後、ラモン司祭につられるままに教会に行き、いつの間にか、キリスト教の信者となって「マンショ」と洗礼を受けた。 マンショ13歳の時に有馬のセミナリオ(神学校)で学ぶことになった開校式の時、ヴァリニャーノに英才を認められ、天正遣欧使節に推薦された。 帰国後、秀吉に謁見し、地球儀・時計・測量儀を献上、布教に努めた。
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千々石ミゲル(清左衛門)
1570~? 有馬晴信の従兄弟で大村純忠の甥。帰国後まもなく棄教。
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中浦ジュリアン
1570~1633 遣欧副使。帰国後宣教に従事し、のちに長崎で殉教する。その時「我は、この目で、(世界の都)ローマを見た中浦ジュリアンなり!」と叫んだ。
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原マルチノ
?~1629 両親がキリスト教徒であったこともあり、司祭を志して有馬のセミナリヲ(イエズス会設立の宗教教育施設。中等教育を実施し下級の神学校を兼ねた。安土・有馬に設置)に入った。
遣欧副使。帰国後イエズス会出版に従事する。1614年マカオへ追放された
参考文献…日本史B用語集 山川出版
『伊東マンショの生涯』 大町三男
参考HP…http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_24/index.html