天草四郎時貞

出典: Jinkawiki

 日本にキリスト教が入ってきてから半世紀ほどの間に、キリスト教信者は70万を数えたという。江戸幕府の2代将軍秀忠は、日本の伝統や秩序の破壊を恐れて、キリスト教を禁止し弾圧を始める。もともとキリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地であった島原(長崎県)・天草(熊本県)地方には、多くのキリスト教信者が住んでいた。特に島原地方の弾圧は厳しいものであった。このころ、不作・ききんが毎年続き、農民は重い税に苦しんでいた。1637年10月、島原で代官とその家来が、農民達によって殺されるという事件がおきる。これをきっかけに、他の村の農民たちも、武器を手に立ち上がり、キリシタンの旗を掲げた大軍は、島原城をめざしておしよせる。農民一揆である。

 この一揆と同じころ、天草地方でも一揆が起きる。その先頭に立ったのが、わずか16歳の時貞である。彼を中心に集まった一揆の数は、6000人といわれ、領主の軍勢を破り、激しくせめた。

 時貞は、関ヶ原の戦いに敗れて処刑された小西行長の家来、益田甚兵衛好次の子であったといわれている。時貞の近くにいた人たちは「この少年は、天がつかわした少年である」といいひろめ、「時貞のもとに集まれ」と呼びかけた。

 一揆勢は、南島原にあった原の古城に立てこもり、板倉重昌のひきいる幕府の軍と戦う。幕府は原城がなかなか落ちないため、「知恵伊豆」といわれた老中の松平伊豆守信綱を派遣する。彼は、原城に武器と食糧が送られないようにし、一揆勢の約4倍の兵で、総攻撃をかける。.2日間にもわたる幕府軍の総攻撃で、さすがの一揆軍もついに敗れてしまう。島原の乱が起きてから4ヵ月、原城にこもって88日目である。

 時貞をはじめ、一揆勢は、最後まで戦ってうち死にし、生き残ったものもすべて処刑される。原城の外に一万数千の首がさらされたといわれている。島原の乱に懲りた幕府は、キリシタンの禁止をますます厳しくし、1639年にはポルトガル船の来航を禁止して、鎖国の体制をかためた。



参考文献

『小学歴史人物』 赤尾文夫  旺文社    

『歴史の精解と資料』 藤井譲治 文英堂   


  人間科学大事典

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