太平洋戦争6
出典: Jinkawiki
太平洋戦争(たいへいようせんそう)
太平洋戦争とは、1941〜1945年におきた戦争です。日本がアメリカ海軍が多数駐留するハワイ真珠湾を攻撃し、日本、アメリカが両国に宣戦布告し始まった戦争です。それから、マレー沖の海戦、マニラ占領、ジャワ沖海戦、シンガポール占領、ドーリットル空襲、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第一次ソロモン海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、アッツ島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、東京大空襲、沖縄本土上陸、原爆投下、ポツダム宣言受諾(無条件克服)などの出来事がありました。最終的に原爆投下により1945年08月15日昭和天皇がラジオにて全国民に向け敗戦を伝えました。
シンガポール占領(しんがぽーるせんりょう)
まず、シンガポールという国は、イギリスが二十年間にわたり、50億ポンド(日本円換算、約16兆800億円)の巨費をそそぎこんだ近代的設備の要塞である。そこを守っていたのは、インド第三軍、第八オーストラリア師団、イギリス第十八師団を中心として約八万五千人、うち、戦闘部隊は約七千人といわれていた。しかし、すでに大量出血、士気も低下しているとい悪状況であった。それに対して日本は山下中将の指揮する第二十五軍は、マレー半島縦走戦を戦い抜いてきた近衛師団、第五師団、第十八師団の三個師団から成っていたが、師団の全兵力が揃っていたわけではなく、兵士たちの疲労も相当にたまっていた。そうした双方悪条件のなかであった。そのなかでの、シンガポールの要塞を攻撃するのは、先のことを考えると無謀なことであった。要塞を攻撃できたところで、鉄砲弾の不足は決定的な弱点となるからだ。そして、山下軍司令官はシンガポール島上陸作戦の開始を決めた。約1000メートルのジョホール水道には、一本の橋があったが、大量のダイナマイトにより25メートルほど破壊されていた。そこで、上陸するには上陸用舟艇160隻をはじめ、おりたたみ式舟艇や小発動機艇を使用するしかなかった。しかし、こうした舟艇を使い上陸完了するには7時間から10時間かかると予想されていた。これが悩みの種になってはいたが、時間との戦いでもありためらうことは許されなかった。上陸作戦を強行し、闇の中だったためイギリスのサーチライトの光がさかんに飛びかかった。しかしそれは、かえって日本軍砲兵隊の絶好の的となった。イギリス軍の攻撃も激しかったが、第十八師団、第五師団がそれぞれ第一線兵力の上陸を成功させた。イギリス軍はジョホール水道を渡って侵攻してくる敵がいるとはほとんど予想できていなかったので、そこの防衛陣地は日英開戦後の二ヶ月間に急造されたものがおおかった。戦いが続き、日本軍の砲弾が少なくなり、食料が十分にない兵士もいた。日本軍も苦戦を強いられていたが、イギリス軍も抵抗の条件を失っていた。そして、シンガポール市域に砲撃が集中し、市民の住宅街にも砲弾が落下した。そうして、イギリス軍司令官・パーシバル中将は、部下の指揮官たちの満場一致の賛成を得て、降伏を決定した。そしてついに、シンガポール市は占領された。
ミッドウェー海戦(みっどうぇーかいせん)
ミッドウェー海戦はミッドウェー島を攻略をしようとする日本海軍と、それを迎え撃つアメリカ海軍との戦いである。そもそもなぜ日本がミッドウェー攻略の作戦を始めたかというと、その当時日独伊三国同盟反対派の秀才でもある山本長官を参考にした、「山本大将の神経」というタイトルで高木惣吉海軍少将は支書を残していた。その内容からもわかる通り、山本大将は当時の戦争に飛行機がはたす役割というものはとても重視していた。本土初空襲から大きなショックも受けていた。そして、山本大将は日米開戦以来、南方作戦が有利に進んだとしても、アメリカの爆撃機が東京・大阪を急襲したら、国民は海軍をうらみ、たたかうという意欲が喪失されることを予想していた。そこで、山本大将はどうしたらよいかと迷った結果、最良の方法として、アメリカの航空母艦が日本本土へ空襲可能な日本近海に接近できないようにすること、東方哨戒線の強化ができるような前進基地を太平洋上に確保することであった。そこで、日付変更線のやや東方にあるミッドウェー島がその一つであった。連合艦隊司令部は、ミッドウェー島を陸軍と共同して占領し、やがて来るべきハワイ攻略戦争にそなえようとしていた。そして、アメリカの空母艦隊がハワイにでてきたら、一気に潰してしまおうとという遠大な計画を立てていた。初めは陸軍は防備・補給困難という理由からハワイ占領・ミッドウェー占領ともに反対派であった。しかし、本土初空襲以来、本土防空を主に担当する立場から、ミッドウェー攻略作戦には賛成するようになっていった。そして、大本営は、山本連合艦隊司令長官に対して、陸軍と協力して、ミッドウェー島とアリューシャン列島西部の要地を占領するよう命令が出された。その内容は「要地の攻略作戦」「出撃し来る敵艦隊」の「捕捉撃滅」という「二兎」を追う作戦であった。結果的には「二兎」を追うというところが敗因の一つであると考えられている。連合艦隊はおおがかかりな編成でこの作戦に臨んだ。しかし、アメリカ軍は、日本軍の暗号を解読しており、ミッドウェー攻撃の企画をほぼ知りつくしていた。たとえばミッドウェー島の守備にあたり、真水蒸溜機が故障で使用できないという嘘の情報をアメリカが流し、水船の追加措置がとられたりしていた。アメリカは日本がどのような犠牲を払ってでもミッドウェー島を確保しようとしていることではないことも承知していた。アメリカ側は貴重なアメリカ軍の空母部隊を保存することがミッドウェー島を救うより重要なこととみなした。そして、アメリカ側はミッドウェー島はいったんすててもあとでとりもどせると判断し、全力で日本の空母部隊の撃滅におくべきであると判断した。つまりアメリカ海軍は、日本海軍とは異なり「一兎」だけを狙っていた。そして、アメリカ軍は日本の主目的の推定もできていて、その後の日本海軍による行動も予想できていた。情報戦争となっている部分もあったため、当然日本海軍のマイナス条件として機能した。日本の戦闘機は途中善戦したものの、最終的には日本軍の敗北に終わった。
沖縄戦(おきなわせん)
太平洋戦争末期に行われた戦争であり、日本とアメリカの間では、一番大きな戦争で最後の戦いとなった。沖縄戦をするうえで、様々な心理作戦も行わられていた。まず、日本軍の敗因はどこにあったのかといいますと、もちろん、アメリカ軍の圧倒的軍事力と情報戦もありますが、それだけではないことはたしかです。たとえば作戦目的の不統一があげられます。軍事専門家たちは、一番の敗因は対米心理戦争において米軍よりはるかに劣っていたことだと分析しています。ちなみに、日本海軍は、個々の戦闘ではアメリカ海軍と競るほどの実力はあったのですが、対米心理作戦面ではまったく、太刀打ちができなかった。まず、日本海軍の場合、軍令部第三部が、情報部門を担当していたが、軍の主流になることはなかった。判断や提案が積極的に活用されることも少なかった。同じように、陸軍の参謀部でも第一作戦課は、優れたエリートがいながらも、情報担当の二部の意見など聞いていなかった。そうして、情報、諜報、索敵の軽視を生み、それが日本海軍を敗北に追いやった。これは沖縄戦に限った話ではない。ミッドウェー海戦、インパール作戦でも同じことが言える。ここからわかるように、軍の組織内部の連携すらも上手く取れていなかった。それに対して、アメリカ軍の場合、いずれかの作戦がひと段落するたびにその作戦の結果を部隊間で一堂に会して総括し、先行の体験から何らかの教訓を得ようと努めていた。こうした連携を部隊間で緊密に行ったことが、勝利に結びついた。そして、アメリカ軍と日本軍で、物事を客観的、かつ科学的に見る基本的な姿勢を比べてみると、日本軍の方が劣っていたと言える。つぎに、戦争指導の全般を通じ、また陸海軍の戦略戦術のすべての局面を通じて、合理性と計画性を欠いた精神主義が濃厚だったことも敗戦の大きな原因だった。そして、敵情の軽視、情勢の判断の甘さがつきまとった。合理的な作戦は、合理的な敵情判断の上に立つものであり、情報収集の重要性が大きい。だが、全てを自分に都合のよい希望的観測の上に作戦を建てるという非合理性が最後まで抜けていなかった。決定的な要因はやはり、軍事技術のはなはだしい立ち遅れがあったからといえる。それを踏まえたうえで、もう一度沖縄戦を見てみる。まず、沖縄戦が起きる前の沖縄諸島の防衛関連の責任は、県都那覇市にある沖縄連隊区司令部が担っていた。つまり、沖縄における徴兵とか動員、召集、在郷軍人の指導などの責任者は、沖縄連隊区司令官であった。そして、1934年の時点で沖縄には「沖縄防備対策」という長文の極秘の電報が送られてきていた。それには4つの沖縄を防衛する基本的方策の案が提言されていた。第一に、「有事」になったら真っ先に「戒厳令」をしくこと。二番目に、沖縄戦を防衛するために、日本が一大海軍力で似て沖縄周辺の防備を固めることが不可欠なこと。不可欠といのはなぜかというと、敵に琉球諸島の一つでも占拠されてしまうと、沖縄本島を守ることはできず、また沖縄本島が占領されると、日本本土の防衛も不可能になってしまうためだ。そして、三つ目は常に県民に対する監視を怠らないようにしなければならないということだ。沖縄は、かつては琉球王国と呼ばれる小さな独立国家であったため、県民はかつての王国に対する忠誠心はあっても、天皇に対する忠誠心は非常に乏しい。それどころか、天皇の存在さえ知らない者が多くいたという。したがって、本土他県の人々に比べると天皇への忠誠心が希薄なだけでなく「国のために命を捧げる」といった気概もきわめて薄弱である。それだけに戦時において、いささかでも監視の手をゆるめると、彼らはどこへ向かうかわからなため、絶えず監視を怠たってはいけなかった。そして、最後の4つ目は沖縄は生活必需品の七割以上も県外からの移入に頼っているので、日頃から戦時に備えて食料の備蓄をしておかなければならないということであった。そして、アメリカ軍上陸し、アメリカ軍の沖縄上陸作戦が開始された。その前哨戦ともいうべき空からの攻撃が開始された。この空襲により日本側は多大な損害を被った。兵員の損害、飛行機の損害、被服や衛生材料などの損害、そして、民間側にもたくさんの被害がでた。沖縄本島だけでも死亡者330名、負傷455名、家屋の全焼全壊11.451戸、半焼半壊62戸、船舶沈没77隻、炎上撃破11隻、食料は全県民の一ヶ月分を失った。こうして、わずか1日で那覇市は、市街地の九割を壊滅せしめられた上、記録によって必ずしも数字は一致しないが、軍民合わせて600名余の死者と1000名近くに及ぶ負傷者を出したといわれている。この空襲に引き続き、アンドリュー・D・ブルース少将の率いる米第七七歩兵師団が、沖縄守備軍の意表をついて本島西方海上の慶良間諸島に上陸。それからも多数のアメリカ軍が上陸した。アメリカ軍はこれほど順調に上陸作戦が進むとは予想していなかった。当初の作戦計画では、北・中の両飛行場を占拠、使用するまでには少なくとも三週間はかかると予想していた。それをわずか上陸後わずか数時間以内に制圧したのであった。一方で、アメリカ軍のとてつもない進撃を目の当たりにして、沖縄守備軍司令官牛島満中将は、当初から負け戦を覚悟していた。しかし、逃げ出すわけにはいかない。彼は、八腹博通作戦参謀の提案を容れて、敵の正面から直ちに反撃に出るより時間稼ぎの持久戦略をとった。そして、アメリカ軍侵攻部隊に最大限の犠牲を強いることにした。そうすることによって、アメリカ軍の日本本土への侵攻を1日でも遅らせようと考えたためであった。 そして、6月23日に沖縄戦を指揮した牛島軍司令官と長参謀長は、自決した。自殺の方法は、切腹あるいはピストルによる自殺という二説がある。しかし、指揮者をなくしたあとも戦争は続いていました。本島南部ではアメリカ軍による激しい攻撃がつづき、沖縄本島周辺の島々への新たな攻撃も始まっていた。最終的に終結したのは9月7日であった。南西諸島守備軍の残存部隊の最高位指揮官らが日本代表として、スティルウェル司令官との間で正式に無条件降伏文書に調印して戦争は終結した。
参考文献
沖縄戦下の米日心理作戦 大田昌秀 太平洋戦争の歴史 上・下 黒羽清隆