太平洋戦争7
出典: Jinkawiki
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概要
1931年の柳条湖事件勃発以降、日本は中国東北部へ侵略。1937年の盧溝橋事件で、日中は全面戦争に突入。やがて戦域は東南アジア、太平洋へと拡大。1941年12月8日日本時間未明、日本の連合艦隊がハワイ・オアフ島の真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けたことをきっかけにて始まった日本国とアメリカの全面戦争。 日本国は総力を結集し、大国アメリカに立ち向かったが、完膚なきまでにたたき伏せられ、日本国の無条件降伏で幕を閉じた。 この戦争は日中戦争と連続しており、また第二次世界大戦の一部でもある。 アジア地域に計り知れない影響を与えると同時に、戦後日本は戦勝国アメリカに統治され、軍事主義国家から民主主義国家へと変貌を遂げる。 大きな歴史の転換点である。
満州事変
柳条湖事件
1931年9月18日、奉天独立守備隊第二大隊の河本末守中尉ら数名が柳条湖付近の南満州鉄道を爆破したことにより勃発した事件。この事件こそ中国東北戦争のきっかけであり、日中戦争を引き起こすことになる。
満州事変
日本は満州全域を占領。その後「満州国」を建国。中国側の呼称は九一八事変である。 満州は日露戦争により先人たちが血を流して獲得した権益であり、満蒙(満州と内モンゴルを合わせた)は日本の生命線であるという雰囲気が流れていた。加えて満蒙の支配が揺らぐことは日本の危機であると国民は考えていた。そのような情勢の中で石原莞爾が1928年10月に関東軍参謀作戦主任として赴任。この石原中佐こそ中国東北戦争の立役者であり、満州国領有計画を立てた人物である。中国東北戦争は石原を中心とする関東軍参謀による満州の領有計画で始まったが、勃発直後には軍部中央の磁極処理羊毛にある従来通りの親日政権の樹立案として対立していった。この結果、1931年10月2日、関東軍は最高会議において「満蒙を独立として我が保護下に置く」という傀儡国家化を決定した。1931年11月、日本軍は新国家元首として清朝の最後の皇帝溥儀を天津から満州に連れ出し、旅順の大和ホテル(満州鉄道経営)に監禁した。この謀略は奉天特務機関長土肥原賢二大佐によって行われた。一方、12月10日に国民党の要請を受けた国際連盟理事会が対満調査団(リットン調査団)の派遣を決定。このことは関東軍の満州国建国を急がせた。関東軍は翌1932年2月16日、板垣参謀主導のもとに、清朝の旧臣で中国東北部の4人の軍閥巨頭であった藏式毅(ぞうしきき)、張景恵(ちょうけいけい)、煕洽(きこう)、馬仙山(ばこうせん)を集め、新国家建設会議を開いた。17日彼らを中心として作られた東北行政委員会は、2月18日に新国家の独立を発表した。中国国民党は大反対であったが、3月1日に張景恵東北行政委員長は満州政府の首相として、満州国の独立を内外に宣言した。建国宣言は建国の理念として五族協和、王道楽土を掲げた。五族とは満州にいる漢人・満人・蒙古(モンゴル)人・朝鮮人・日本人をさし、これら民族は平等であるとされた。溥儀は清朝皇帝ではなく満州国執政として扱われた。関東軍板垣参謀はさっそく3月6日に溥儀に文書を提出させた。その内容は、国防・治安・は日本に委託させる、関東軍の必要とさせる鉄道・湊湾・水路・航空路、その他必要とする施設などの管理は日本に委託させる、満州国参議に日本人を採用し、中央・地方の役所に日本人を任用し、推薦・解職は関東軍司令官の同意を必要とする、というものであった。民族の協和どころか満州国は軍事・内政とも完全に日本の支配に服し、中国本部から東北部を切り離しただけの植民地化であった。
日中戦争
盧溝橋事件
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の小さな衝突が起こる。 歩兵第一連隊第三大隊の第八中隊が盧溝橋近くで夜間演習を行っていた時に起きた。 盧溝橋近くには宛平県城があり、中国軍が駐屯していた。 この両軍が接近した中で数発の銃声がひびいた。点呼をとると日本兵一名がいなかった。 このため第三大隊長一木清直少佐は部隊を出勤させた。 これがその後日中全面戦争に発展する発端の盧溝橋事件である。 盧溝橋現在の北京から南西約6キロにある。 現在橋の近くには1987年に日中戦争50周年を記念して建てられた中国人民抗日戦争記念館がある。 この館の前に獅子の咆哮する石像があり、これは日本軍の侵略によって「眠れる獅子」が起きたことを意味する。日中戦争が「眠れる獅子」中国を起こしたということである。
太平洋戦争
日米開戦
1940年1月、アメリカは日本に対する鉄屑、航空用燃料等の輸出に制限を加えた。 近衛内閣は7月16日に内閣総辞職を行い、豊田貞次郎海軍大将を外相に起用して最後の日米和平に期待をかけた。9月6日の御前会議では「帝国国策遂行要領」が正式に決定された。 1940年9月、日本は日独伊三国同盟(日独伊三国防共協定1936 とは別もの)を締結。この同盟の締結でアメリカは日本を敵国と見なし、鉄屑と鋼鉄の輸出を全面禁止した。 日本は10月下旬をめどにして自存自衛のために対英米戦争の準備を完了し、外交によって解決しない場合は同月上旬に対英米戦争も辞さない覚悟を固めた。さらに日本は石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、1941年7月、南部フランス領インドシナに軍隊を進駐させた。戦争準備はさらに進み、陸軍は全兵力の5分の1にあたる10個師団と航空兵力を割き、マレー、シンガポール、フィリピン、蘭印など東南アジア一帯を4か月で占領する。海軍は南方作戦に協力し、航空母艦を中心とする機動部隊でハワイ真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、巡洋艦部隊の主力をフィリピン、一部をマレー上陸に向ける、というものであった。とくに山本五十六連合艦隊司令長官はハワイ先制攻撃による対米戦争の早期決着をもくろんだ。 その後アメリカは石油の対日輸出を全面禁止、対日資産凍結などで日本を牽制し、日米関係は最悪の事態に。 1941年夏頃から、日本に戦争遂行に必要な石油などの資源を渡さない行動を、アメリカを中心にイギリス、そしてオランダ領インドシナ(本国はドイツに占領されている)が、一致して取り組み、もとより交戦中の中国も協力するわけがないので、これら4か国が資源による経済封鎖を日本にかけている状態となった。
戦局の展開
第一期は1941年12月の真珠湾攻撃から1942年8月の米軍のガダルカナル島上陸までである。1942年6月のミッドウェー海戦における日本海軍の大敗北を転機にして8月米軍のガダルカナル島上陸までが日本軍の戦略的攻勢の段落である。第二期は1942年8月のガダルカナル島上陸から翌年2月の日本軍のガダルカナル島撤退までであり、戦略的持久の段階である。第三期はガダルカナル島撤退から1944年6月のサイパン島などマリアナ諸島放棄までであり、戦略的守勢の段階である。第四期は1944年6月のマリアナ放棄から沖縄戦を経て1945年8月の敗戦までであり、絶望的抗戦の段階である。
真珠湾攻撃
日米開戦は第一撃を奇襲で始めることとした。このために日米交渉は開戦の12月8日まで継続し、ハワイ真珠湾攻撃の1時間前にアメリカに交渉打ち切り通告を手渡すこととした。しかし実際にはワシントン駐在日本大使館での暗号解読と清書が遅れ、野村大使がハル長官に渡したのは真珠湾攻撃の1時間後であった。通告なしの奇襲はだまし討ちとしてアメリカ国民を怒らせ、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉にアメリカ国民の強固な結束を生み出し、対日戦を戦い抜くことになった。また、たとえ攻撃の1時間前に日本の通告が間に合ったとしても、所詮アメリカが防衛できない時間での通告であり、奇襲・だまし討ちに違いはなかった。 日本軍の連合艦隊は大型航空母艦6隻で千島列島の択捉島の単冠湾を出発し北から真珠湾に近づき、日本時間で12月8日午前3時20分(アメリカ時間で7日午前7時55分)に攻撃を開始した。ハワイは日曜のちょうどよく晴れた朝だった。真珠湾にはアメリカ太平洋艦隊が集結し、湾内のフォード島に二列に並んで係留していた。空母から飛び立った二波の航空艦隊による奇襲は完全に成功。戦艦アリゾナほか5隻、軽巡洋艦1隻を撃沈するなど重大な損害を与えた。 この結果、アメリカ兵は2334人の戦死者、1341人の負傷者を出し、他市民68人が死亡し役280人が負傷した。日本軍の被害は航空機29機、戦士55人であり、真珠湾に突入した特殊潜航艇5隻は全滅し9人戦死、1人捕虜となった。このようなアメリカ側の犠牲の多さは日本のだまし討ちの結果でもあり、モンロー主義を捨て、アメリカが第二次世界大戦に参戦するための絶好の機会となった。
沖縄戦
連合国軍は戦艦20、空母19隻を中心として3月26日に猛烈な艦砲射撃を行い、沖縄本島近くの慶良間列島に上陸し、4月1日に沖縄本島に上陸した。連合国軍の兵力は183000人で、日本陸軍の兵力86400人、海軍8000人をはるかに圧倒するものであった。米軍は通常爆弾だけでなく、ナパーム弾を投下して民家を焼き払い、ロケット弾・毒ガスを使用し、激しい銃撃を行った。6月までに51万発の艦砲弾と177万発の野砲・銃弾砲があられのように地上に降った。これは1平方メートルに1発の砲弾というほどのすさまじさであり、「鉄の暴風」とよばれた。古都首里は1日にしてがれきの山となり、日本軍は5月27日に首里を退却して南部の摩文仁の丘に司令部を移した。沖縄での戦死者は、軍人・軍属が9万4136人であるのに対して一般住民・戦闘協力者は約9万4000人も亡くなっており、多数の非戦闘員が犠牲になったことに特徴がある。
降伏への道
1942年4月18日、アメリカのドゥリットル中佐による日本への初空襲、そして1943年夏の連合国軍のドイツへの戦略爆撃の本格化に対して、政府は防空対策を急ぎ、1943年12月に「都市疎開実施要網」を決定した。12都市に防空空き地をつくり、1944年3月には学童疎開を開始した。しかし、一般疎開の急増は1945年の東京大空襲以後であり、1944年2月から45年5月にかけて337万人が東京から地方に脱出した。政府、軍ともにB29による1万メートル以上の高々度からの空襲にほとんど無防備であることを知っていた。その一方、国民に対しては米軍の本土上陸に竹槍訓練、空襲には警防団・隣組・学校報国隊などによるバケツリレーとハタキで対処するというまったくお粗末な精神主義で対応していた。 1944年6月のB29による八幡製鉄所を狙った北九州爆撃で本格的な空襲が始まった。翌年の2月中旬までに1200機のB29が本土に飛来し、1945年3月10日には東京大空襲と言われる本格的な都市無差別爆撃が行われた。二時間半の空襲で東京の下町を中心に死者8万3070人、100万人の人が家を失い、こののちの原爆に次ぐ甚大な被害を出した。5月25日の空襲では皇居が焼失し、同月29日には横浜が空襲を受けて灰燼と化した。6月には地方都市に対する無差別爆撃が始まり、一晩で4つの都市が破壊されていった。7月になると空からでなく海からも艦砲射撃で地方都市が砲撃されるようになった。しかし、日本軍航空隊は僅少な兵力を温存するためにほとんど有効な反撃を行わず、国民の不満は高まった。空襲の大規模化により、国民の戦意は喪失し、敗戦ムードが高まっていった。
ポツダム宣言と原爆投下
1945年7月17日からベルリン郊外のポツダムでトルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三国首脳会談が開かれ、日本に対する即時無条件降伏要求が決定された。これが7月26日に米英中によって発表されたポツダム宣言である。ここには①「世界征服をしようとした権力や勢力」の除去、②連合軍による日本占領、③植民地・占領地返還、④軍隊の武装解除、⑤戦争犯罪人の処罰、⑥経済の非軍事化など、戦後処理と占領政策の基本が書き込まれていた。とくに「言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重」がうたわれ、反ファシズム宣言としての性格を持っていた。これに対し、日本の鈴木首相の回答は黙殺であった。外務省は意思表示せずと主張し、軍は拒否という強い態度をとった。連合国はこれをポツダム宣言拒否と受け取った。アメリカは日本の拒否を理由として、ポツダム宣言の通告通り「日本国本土の完全なる破壊」を行うために、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原爆を投下したのである。
終戦
原爆投下とソ連の参戦によって日本の戦争継続能力は崩壊した。8月10日の最高戦争指導者会議で鈴木首相は天皇の「聖断」という形でポツダム宣言の受諾を決定し、14日の御前会議で受諾を最終的に確定し、連合国軍に通告した。国民には8月15日正午に「玉音放送」という録音による天皇の国民への呼びかけによってこれが告げられ、国民は初めて敗戦を知った。9月2日には降伏文書の調印がアメリカ戦艦ミズーリ号上で行われた。
参考文献
目からウロコの太平洋戦争 河合敦//7米英にとっての太平洋戦争 上下巻 クリストファー・ソーン 市川洋一訳//アジア・太平洋戦争 集英社 森武麿
ハンドル名:NISHI