太平洋戦争8
出典: Jinkawiki
1941年12月8日から1945年8月15日、日本が米、英、中などの連合国との間に戦った戦争。戦時中の日本では大東亜戦争と呼ばれていた。 戦後は太平洋戦争と呼ばれてきたが、中国、東南アジアを含む戦争を念頭に1980年代後半からアジア太平洋戦争という呼び方も使われるようになった。 満州事変、日中戦争など中国に対する侵略戦争と、国際的なファシズム体制の強化は、帝国主義勢力に対する民族開放闘争、帝国主義国家の闘争、 民主主義国家とファシズム国家との対立などを深めた。1939年第二次世界大戦が起こると日独位の三国は結束を強め、1940年日独伊三国同盟を結び日本では対米英戦が目標とされた。 米国は連合国側に接近し、日本の南進政策を阻止する態度を明らかにした。資源確保を急ぐ日本は1940年9月北部仏印進駐により南進政策を明確化した。 1941年4月から日米会合が開始されたが、これは陸軍内部にまだ強かった対ソ戦企図と、日中戦争の収拾、対米英戦の3つを選ぶための時間稼ぎに過ぎなかったようだ。 同じ年の7月日本軍は南部仏印に進み、軍事基地の強化に着手、米国の態度は硬化した。日本政府は9月御前会議で対米英オランダ戦争の期日を決定し、 米国も日本国側からの攻撃を待ち、参戦しようとした。10月東条英機内閣成立、12月8日真珠湾攻撃、マレー半島上陸で戦争は開始された。開戦約五ヶ月間に、 日本軍は香港、マレー半島、フィリピン、ジャワ、ビルマ(ミャンマー)の各地を占領。これらの地域の豊かな資源によって長期戦争の態勢ができたと日本政府は強調した。 しかし、1942年6月ミッドウェー海戦をきっかけに連合国側の反撃は進み、ソロモン諸島の日本軍は延びきった輸送船を断たれて苦戦した。 1943年2月ガダルカナル島からの撤退をはじめ、日本軍は各地で敗退した。1944年サイパン島失陥は支配層に打撃を与え、東条内閣は総辞職した。 その後フィリピンが連合国軍の攻撃にさらされ、日本本土がサイパン島を基地とする米空軍の空襲を受け、1945年に入って硫黄島が陥落し、 4月米軍は沖縄に上陸した。鈴木貫太郎内閣は終戦をその使命として与えられたが、有効な手段を打たぬうちにポツダム宣言が発表され、 広島長崎へ原爆が投下されてしまった。さらにソ連が参戦し、内閣はようやくポツダム宣言受諾を決意した。そして3月15日これを公表した。 この日が終戦記念日となっている。降伏文書調印は同年9月2日東京湾に入った米国戦艦ミズーリ号上で連合国軍最高司令官マッカーサーと日本側外務相重光葵との間になされた。