孔子
出典: Jinkawiki
紀元前552年に生まれ,紀元前479年に73歳で没した。生年に関し,紀元前552年説と551年説とがあったが,近年の研究で,「史記」や「春秋」の年次表記法の違いにもとづくもので,紀元前552年が正しいということである。春秋時代の思想家。孔子の言行は『論語』におさめられている。 現在の山東省の曲阜に近い,昌平郷の寒村に生まれる。孔家の祖先は宋の王族から出たと伝えられている。孔子は亡くなる一週間ほど前に,かりもがり(貴人が死んでから本葬するまでの間,遺体を仮に納めておくこと)をする堂の2本の柱の間に座って供物をそなえられる夢を見たという。これは講師に殷人としての自覚があったことを示している。古代では,人が亡くなると死者の魂が戻ってくるかもしれないと考え,本葬前に一定期間遺体をしかるべき場所に安置した。遺体を堂の柱の間に安置するのは院の風習である(周の礼とは異なっている)。したがって孔子の夢は,院のかりもがりの位置に自分が置かれていたという意味である。 孔子の父は,支配階級の末端に位置する士に属したが,官職は宰(行政責任者)という下級のものであったといわれている。しかし勇敢な軍人で,紀元前563年と紀元前556年の2度の戦で功績を立てたという。孔子も,この父の形質をうけ,身長は9尺6寸(現代尺度で191cm)あったという。長大な身長のために孔子は「長人」と呼ばれていたという音である。
20歳余ですでに弟子を得る。20代後半に下級官吏となるが,魯の昭公が豪族の三桓氏に追われて亡命したのにしたがい,いったん斉国に赴く。後に魯に登用されて司寇(司法大臣・宰相)につくが,公家権力を強化しようとして挫折。魯を去る。以後,諸国に徳治政治を提言するが受け入れられず,教育に生涯をささげる。14年の遍歴の後帰国し,没す。 孔子は,社会には礼という秩序が必要であり,それには仁という心が必要であると説いている。
・徳治主義
上に立つものが徳を積み,自らを正せば,おのずと民の信頼を得て政治は安定し,礼儀も正される。そして人々の調和と平和は実現されるであろうという考え。政治の原則は修己治人(自分が学問を修めて精神をみがき,人格を高めようとすることで人を安らかにする)にあり,権力主義や功利主義によらず,徳の感化力によって民を治めるのが理想の政治である。
・仁
孔子の教説の根本。仁は「二人」が出会い,親しむこと,人の人らしさを意味する。この「仁」は,無差別的な博愛ではなく,人間普遍の家族的親愛の情を基本とする。
・忠恕
人の人らしさは,自分自身においては,自己を偽らない誠実さ(忠)となる。誠意を他人に及ぼすところに自分のごとく他人を思う,思いやりの情(恕)があらわれるという。 「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(自分がして欲しくないことは他人にもするな)」というのがすべての道徳律の基本。人を尊重し,人を思いやることについて言っている。
・礼
仁の客観的形式。(忠恕は仁の主観的内実)仁愛が人と人との秩序関係へと客観視され,仁愛に満ちた行為の形式へと実現化された姿。 しかし,「人にして仁ならずんば礼を如何せん,人にして仁ならずんば楽を如何せん(人として仁でなければ礼を実践しても無意味,人として仁でなければ楽を演奏しても無意味)」とも言っている。つまり,仁の精神がなければ,いくら儀礼や音楽を勉強して完全にできても、それに価値はないということである。
- 参考
・『孔子―中国の知的源流』1997年 蜂屋邦夫 講談社現代新書
・『詳解 倫理資料』羽野幸春(ほか3名) 実教出版