孝明天王
出典: Jinkawiki
孝明天皇は攘夷論を唱え、開国に反対した人物。そのため、老中首座堀田正睦が条約の勅許を求めてき時、条約調印の勅許を与えなかった。ところが、1858(安政5)年、清国がアロー戦争の結果として、イギリス・フランスと天津条約を結ぶと、日米和親条約より下田駐在の初代アメリカ総領事として来日したハリスは、イギリス・フランスの脅威を説いて通商条約の調印を強く迫った。そして、その当時大老であった井伊直弼は孝明天王の勅許をえないまま強引に日米修好通商条約の調印を断行した。それに対して孝明天王は当然のごとく激怒することとなった。孝明天王は水戸藩と幕府側に対して大名菅間で現状の問題を話し合うように勅命を出した。これを戊午の密勅という。子の密勅の写しについては、公家を通じて薩摩藩や長州藩などにも送られた。これにより、幕府側が朝廷側との交渉を独占する体制が崩れ始め、薩摩藩の公武合体策、長州藩の尊王攘夷論が調停を動かすようになっていった。(シオン)
参考文献 新詳日本史
編集者 浜島書店編集部
発行者 株式会社浜島書店 代表者 浜島 晃
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