安土城
出典: Jinkawiki
安土城は、1579年(天承4)に織田信長が築いた参上で、土塁と石垣をめぐらした中に店主代・本丸・二の丸・三の丸などを備えた。日本の城郭の歴史の活気となった白である。築城されてからわずか数年で消失指定待ったことも合って、その実像については不明なところも多いが、標高約199メートルの安土山に築かれた城域の規模は1キロ×1.5キロという広大なものであった。
安土城は、五層七重(地上6階地下1階。)の壮大な天守を持っていたことが大きな特徴である。本格的は天守を持った白は、この安土城が最初であると言われている。元々山の参上と言う立地であるうえ、そこに高層建築物が建てられてのだから、当時の人々は天守の高さに驚いたに違いない。また、文献資料では、天守の内部には金箔が貼られ、外部には各層毎に色が塗り分けられていたという。発掘調査によれば、金箔の瓦や菊の文様や五七の桐の付いた瓦も発見されている。安土城の瓦は通常の黒瓦と比較して少し青みがかかって艶のあることが特徴だが、肌色の赤芦原も発見されており、店主の建物が階層によって分けられていたように、階層ごとに瓦も使い分けされていたと推定できる。
安土城は軍事施設としての機能を備えていたことはもちろんだが、外見的にも意匠を凝らした斬新な建築物であったため、権威の象徴としての機能も備えられていたと言われている。しかも、それは単に財力や政治力を誇示するためのものではなく、神道・仏教・儒教など全てを超越した存在、自身を「神」とする天道思想を表現しようとしたといわれている。政治的な支配力だけでなく、信仰上の支配力をも持つことによって、その権力をより強固なものにしようとしていたと考えられる。
また、安土城の特徴として上げられるのは「立地」である。安土城は近江の国、つまり、今の滋賀県琵琶湖東南部に置かれていた。距離的には機内・北陸・東海の中間に位置し、各地の流通を全て押さえることが出来る場所である。このことから、信長は全国の流通の拠点を安土に盛ってこようと目論んでいたようだと考える事が出来る。
しかし、1582年(天正10)6月2日、本能寺の変によって築城間もない安土城の運命は暗転、その後は放火され、城下町・天守ともに焼失してしまった。
参考文献:「戦国史」 監修:武光 誠
http://www.azuchi-museum.or.jp/