安政の大獄2
出典: Jinkawiki
安政の大獄2
概要 安政6年9月、大老井伊直弼は京都を中心に活躍していた一橋派と尊王攘夷派の一掃を決意し、全国の志士、浪人を次々に逮捕した。安政の大獄といわれているこの弾圧事件は、上は公卿、大名から下は婦人、幼児にまで及び尊王攘夷派は大打撃を受けることとなった。 しかし、結果的にこの弾圧は攘夷派の怒りを誘い、攘夷運動が討幕運動へと変化をしていくきっかけを作ることにもなったのである。 孝明天皇の怒り 大老井伊直弼による日米修好通商条約の調印は、孝明天皇を激怒させることになってしまう。孝明天皇はただちに勅書を発し、条約の調印は天下の滅亡のもとであり、自分は退位したいとの旨を告げたのである。これに驚いた九条尚直は、事態収拾のために御三家あるいは大老の上京を要請するが、井伊直弼は政務多忙を理由に、2か月以上たった後で老中間部詮勝を上京させるのみにとどまるのである。だが、これは井伊直弼の大きな油断となってしまうのである。この間に京都では一橋派の志士たちが朝廷に働きかけ、大老の辞任、御三家への処罰の撤廃、将軍継嗣の再議などを、勅碇として出す運動を始めていたのである。その結果、8月8日にいたって朝廷は違勅調印と御三家への処罰に遺憾の意を表し、今後は幕府と御三家、諸大名が一致して問題にあたるようにとの異例の勅諚を水戸藩に出し、このことが水戸藩から幕府へ伝達されることになったのである。さらに朝廷では、井伊直弼の支持者であった九条関白排斥運動が起こり、幕府側の必死の努力により辞任は阻止されたものの、朝廷が幕府の支配下を脱しようとしていることは明白な事実となって井伊直弼に突き付けられることになるのである。 安政の大獄へ これまでの朝廷の一連の動きが尊王攘夷派志士らの扇動によるものだとして、京都における尊王攘夷派勢力の一掃を決意するのである。このようにして安政の大獄が開始されることになるのである。井伊直弼は、小浜藩の酒井忠義を京都所司代に任命し、老中間部詮勝とともに、京都における尊王攘夷派のたいほにあたらせたのである。9月7日、小浜藩士の梅田雲浜が京都で逮捕されたのを皮切りに各地で尊王攘夷反幕の志士の逮捕が相次いだのである。 参考文献 幕末維新ガイド まるわかり日本史