宗教問題2

出典: Jinkawiki

目次

ヨーロッパと宗教

移民と難民

 EU諸国には2000万人以上と推定される移民が住んでいる。北アフリカ、サハラ以南アフリカ、トルコ、インド亜大陸などが主な出身国・地域である。イギリスやフランスの植民地出身者も多いが、これは、第二次世界大戦によって多くの人命、労働力を失った国々が、復興とその後の経済発展のため外来の労働者を必要としたということだ。そして、移民労働者の貢献なしに、今日の西ヨーロッパの経済とその豊かさはあり得なかったと言っても過言ではない。この人々がその後定住し、家族を呼び寄せ、今日では二世たちが移民の中心となっていて、市民としての権利が認められている場合が多くなった。

 加えて、ヨーロッパ各国は、政治的・宗教的迫害を受けたり、戦火に遭ったりした難民を、かつてのソ連・東欧諸国、パレスチナ、インドシナ三国、今は戦乱の地シリアなどから受け入れてきた。

 それゆえ、EUのヨーロッパは、国、民族と文化の多様性を特徴とし、数十の言語が使われ、尊重され、五指を超える宗教が存在する、多文化共生を実現してきたと言えるだろう。

「イスラム問題」を受けて

 今日、ヨーロッパのなかに幾つかの亀裂が走るようになった。その一つが「イスラム問題」という亀裂だ。

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊され、続いてヨーロッパの三つの首都で地下鉄の爆破などのテロ事件が起こり、イスラム過激派の攻撃として大きな衝撃を与えた。その間にイラク戦争があったことも忘れられない。これらの事件は、ヨーロッパ社会に緊張と苦悩をもたらした。イスラムは「狂言的」で、「暴力的」だと警戒心や敵意をあおるような報道や政治宣伝も行われるようになり、批判の眼が、ヨーロッパのなかに定住している移民にも向けられるようになったのだ。

 国籍・出身国からみて「ムスリム(イスラム教徒)」とみなされる移民は確かに多かったが、非ムスリムもいる。ヨーロッパで生き、教育を受け、イスラムから離れる者、個人的信仰としてモスク(イスラム教の礼拝所)に通うなど集団行動は行わない者、宗教は私的なこととし、仕事など社会関係の場では誰とも隔てなく付き合う者も、少なくない。

 しかし、ヨーロッパ内外で起こったイスラム過激派のテロ行動から衝撃を受けた市民は少なくなく、ムスリムといわれる移民にも動揺が起こった。イスラム過激派の脅威を強調することで支持を伸ばそうとする政党も現れた。フランスでは、政治と宗教の分離という考えに基づき、公立学校のムスリム生徒の服装に条件を付けようとし、紛争が起こる。すると、「イスラムは近代国家と相容れない宗教」といった宣伝がなされた。

問題の本質

 ムスリムの移民の若者のなかから、ごく少数ながら過激派の直接行動に参加する個人が生まれてしまう問題の背後には、差別されていると感じ、失業し、貧しい移民二世たちの存在がある。2015年1月、預言者の風刺マンガを掲載したフランスの一週刊紙の社屋を襲って死傷者を出した事件の容疑者は、そうした青年だったと思われる。

 移民の失業率の高さや貧しさは調査や統計でも示されている。ヨーロッパ各国にとって社会経済改革は必要な大きな課題であり、特に雇用差別を無くし、平等な市民として扱うことが大切なのである。

インドと宗教

祈りの国「インド」

 インドは祈りの国である。82%のヒンドゥー教徒、11%のイスラム教徒、2.5%のキリスト教徒、2%のシーク教徒、0.8%の仏教徒、他にジャイナ教、ゾロアスター教などが日々の平和な暮らしを願い、朝な夕なにそれぞれの神に祈りを捧げている。

 インドにはもう一つの顔がある。恒常的な宗教間の争いと、歴史に根ざしたカースト間の憎しみ合い、言語集団の間の反目、時おり表面化する人種間の不和――などを闘う顔だ。

アッサムの人種暴動

 1983年2月18日、インド東部辺境州のアッサムで暴動が起きた。これが「アッサム人種暴動」である。州民同士の殺戮の応酬は州内十地区のうちナウゴン、ランキプール、カムラップの三地区で凄惨をきわめた。ナウゴンでは18日夜半から19日の未明にかけて、手に竹槍、弓、山刀、クワ、スキ、カマなどを持ったヒンドゥー教徒農民がイスラム教徒のベンガル人集落を襲い、随所で村ぐるみを全滅させた。夜明けのアッサムの山野には首や手足のないベンガル人の死体が散乱したという。警察の発表では、死者は3500人を超え、負傷者は数万人に達した。

 アッサム州民は以前から、流入した50万人以上のベンガル人難民の影響で暗い影を落としていた経済や治安に不満を積もらせていた。しかしその不満は中央政府(国民会議派)には届かず、逆に中央政府は地方自治権の停止を意味する「大統領直轄州」にアッサム州を指定して不満の爆発を回避した。

 1977年の総選挙で、インディラ・ガンジー首相の国民会議派が大敗した後、アッサム州は非国民会議派の政党が政権に返り咲いた。しかし1980年の総選挙でガンジー首相が復権し、全国の非国民会議派の切り崩し工作に着手した。これにより、アッサム州民の反政府闘争が再燃した。

 中央と地方の闘争を背景として1883年に州議会選挙を迎えたが、この選挙は反国民会議派がボイコットを表明していたこともあり、ガンジー首相が率いる国民会議派の圧勝が確実視されていた。しかし、ガンジー首相は勝利に万全を期すため、アッサム州民(ヒンドゥー教徒)と折り合いの悪いベンガル人違法流入民(イスラム教徒)に選挙権を与え、ベンガル人票を味方につけて選挙に臨んだのであった。アッサムの山野を血で染めた「人種暴動」は、この選挙開票のさなかに起こった事件だった。

シーク教徒に対する弾圧

 アッサム州人種暴動から一年後の1984年5月末、ガンジー首相は中央政府軍と特殊警察部隊をインド北西部のパンジャブ州へ送り込んだ。

 シーク教総本山の黄金寺院とパンジャブ州内のシーク教の44寺院が政府軍の総攻撃を受けたのは6月5日のことであった。警察発表によれば、政府軍のこの大規模な武力行使でシーク教徒過激派の指導者ビンドランワレ師をはじめ500人が死亡、千数百人が負傷した。この事件はシーク教徒の自治権要求運動を一変させた。ニューデリーを含むヒンドゥー語圏の各都市でシーク教徒の報復暴動が発生し、暴動が暴動を誘発して拡大した。

 久しく平和が続いたパンジャブに「地方自治権の拡大」「インドからの分離独立」の声が上がったのは1981年の秋である。アッサム州の場合と同じように、すでに与党の国民会議派による地方議会工作が着々と進められていた。パンジャブ州議会の政権を握ってきたシーク教政党、アカリ党指導層の危機感は極限に達していたが、これという対応の術がなかった。

 この年の秋に実施された州議会選挙でアカリ党はガンジー首相が率いる国民会議派に敗れ、中央政府との連携の絆を断たれた。この時、シーク教徒の権益擁護を政府に求めて立ち上がったのが、後に過激派と呼ばれるようになったアカリ党の若手グループであった。

 中央政府のなすがままに州と教徒の運命を任すか、闘いに命を捧げるかの選択を迫られた「過激派グループ」は、ビンドランワレ師を指導者としてヒンドゥー教徒の中央政府公務員を標的とするテロに走った。頻発するテロに手を焼くガンジー政権もまた決断を迫られていた。黄金寺院総攻撃はパンジャブ州民とシーク教徒が最も恐れた中央政府からの回答であった。

 なお、インディラ・ガンジー首相は、1984年10月31日午前9時40分(日本時間午後1時10分)、公邸の庭先に出迎えたシーク教徒の護衛官によって暗殺された。


参考文献

西崎文子・竹内進一(2016)『紛争・対立・暴力―世界の地域から考える』岩波書店

丸山庸雄(1993)『アジアを見るジャーナリストの目⑦ インド 宗教紛争とカースト社会』(有)梨の木舎


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