宗教改革(スイス)

出典: Jinkawiki

スイスの宗教改革は、1519年1月1日、スイスの代表的な人文主義者であったウルリヒ・ツヴィングリ(1484~1531)がドイツ語圏の都市チューリッヒのグロースミュンスター教会において聖書講解を始めたことに端を発する。ツヴィングリは、人はできるかぎり規制の俗世権力を通じて尽力すべきであるという見解に立っていた。ツヴィングリは改革を二段階で動かそうと望んでおり、第一段階に市参事会が宗教の改革の必要性を納得し、次いで、俗世権力として行動しながら改革の実施を図るべきである、と考えていた。こうして彼は、改革に同意するように市参事会に絶え間な一連の圧力をかけることを奨励した。そして、市参事会側からの好ましい応答を、さらに推進してよいという合図として受け取り、ついに、変革を支持する適切な立場にまで市参事会を動かした。1522年には、聖書に書かれていないことを根拠に、4旬節における小斎命令(肉食禁止)の廃棄、聖職者の結婚禁止解除、修道院制度の廃止が求められた。ツヴィングリは市参事会の信仰をめぐる公開討論会を開催するように願い出て、その討論会で「67箇条の課題」を発表し、内容は真っ向からカトリック教会に対峙するものであった。しかし、布告の中で討論の規範としてルターの「聖書のみによって」の原理が謳われ、聖書が明白に命じていること以外全て拒否する運動を激しく展開したためチューリッヒは大混乱に陥った。討論後、都市当局は「福音の自由説教」を認める布告を出している。

「福音の自由説教」が認められたのち、チューリッヒでは聖画像とミサの廃止がされ、修道院も姿を消し、この動きはスイス全土にまで普及した。改革を進めていく中で、ツヴィングリの若い信奉者たちの間で対立がおこり、信奉者であったグレーベル・コンラート(1498~1526)らは、幼児洗礼が聖書に書かれていないことを指摘し、ツヴィングリから分離していき、相互に成人洗礼を施しあって、再洗礼派運動を起こすこととなった。

ツヴィングリはその後、チューリッヒ軍を率いてスイス内陸のカトリック諸邦と戦い、第二次カペル戦争で戦死した。チューリッヒではハイリンヒ・ブリンガー(1504~75)がツヴィンの遺志を継いで、改革を推進させ、ジュネーブのカルヴァンとともにスイス改革派の進展に寄与することになる。


参考文献

・森田安一著,『宗教改革』,河出書房新社

・R.W.スクリブナー,C.スコット・ディクスン/森田安一訳,『ドイツ宗教改革』,岩波書店

・スイスの宗教改革-カトリック中央協議会 http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/dogma/dog15.htm 7月18日


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