宗教改革(ドイツ)

出典: Jinkawiki

近代初頭西方キリスト教会に起こった反カトリックの宗教運動。この運動の結果プロテスタント教会が確立され、ルネサンスとともにヨーロッパの近代を開いたという歴史的意義をもつ。1517年ドイツに始まり、スイス・フランス・ネーデルラント・イギリス・デンマーク・ノルウェー・スウェーデンに波及した。この運動の先駆的運動は中世末期の諸国に異端運動としてすでにあらわれていた。イギリスのウィクリフやボヘミアのフスがそれである。


ドイツにおける宗教改革

 ドイツはローマ教会による収奪の的となっていた事情から反カトリック的気運が強く、1517年ルターが贖宥状販売を批判した『九十五カ条の論題』を発表するとたちまち、全国民的反響を呼び、多くの領邦諸侯も政治的経済的利害からそれを支持した。ルターは19年にライプツィヒ討論で教皇および公会議の権力を否定し、20年には『キリスト者の自由』等を発表して改革の理念を表明した。ついで教皇の破門威嚇勅書を公衆の面前で焼却し21年彼をヴォルムスの国家に召喚し所説の撤回を求めたカール5世の要求を拒否して不退転の態度を示した。彼の根本思想は「信仰によってのみ義とされる」とする信仰の徹底的内面化と、聖書のみを唯一至高の権威とする立場、それから帰結される万人司祭制であった。ルターが聖書の独訳を完成したのも、民衆がみずから聖書を読めるようにするためであった。しかし当時のドイツの政治的・社会的情勢は彼の改革運動と絡んで22-23年の騎士戦争や24-25年のドイツ農民戦争を激発させることになり、その鎮圧後、改革運動は国民的基盤を喪失し、カトリック派の皇帝・諸侯と改革派の諸侯・帝国都市の政治的抗争としてのみ展開された。改革派は皇帝の圧迫に対して抗議し、30年にシュマルカルデン同盟を結成し、46-47年のシュマルカルデン戦争を経て、55年のアウグスブルク宗教和議で皇帝にルター派を容認させた。しかし、これは個人の信仰の自由を認めたものではなく、宗派の選択権を諸侯たちに認めたにすぎなかった。


 宗教改革が文化、政治に及ぼした影響ははかりしれないほど深いものがある。古い教会がもっていた道徳、経済に対する権力を壊し、国家建設のプロセスを援護したといってよいだろう。  


参考文献 T.バーギン/J.スピーク編 別宮貞徳訳 「ルネサンス百科事典」 原書房

京大西洋史辞典編纂会編 「新編 西洋史辞典 改訂増補」 東京創元者


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