宗教教育
出典: Jinkawiki
宗教に関する知識を豊かにし、宗教の理解を深めることによって、人間の宗教的敬虔(けいけん)と宗教的情操を高めることを目ざす教育。
宗教は法のような外部的要請とは異なり、個人の内面に働きかけることによって、教育の基本的目標でもある人格的成熟と文化的発展の基礎を提供する。この意味で、宗教は教育の目標と密接な関連をもっている。したがって宗教的事項の教育内容への組み込みが、当然のこととして要求される。しかしその際、宗教に関する歴史的・一般的知識を諸宗教に対して公平に取り扱うことが必要である。これは、宗教に対する偏見と誤解を是正し、正しい宗教的情操を育成する前提でもある。とりわけ宗教的寛容については、配慮がなされなければならない。宗教的寛容は、各人の世界観的立場や人格の尊重に通じる。 一般に人は宗教の問題にきわめて不寛容な態度をとり、歴史的にも宗教が迫害や戦争の原因ともなってきた。他者の信仰に寛容であるということは、自己の立場の真理を確信しつつ、他者の立場と人格を尊重し、同時に、同情や思いやりを示すという、人間同士の倫理的関係を自覚することでもある。この自覚は宗教教育だけでなく、広く道徳の問題でもあるが、この意味で宗教教育が道徳教育の基礎でもあると考えられている。
日本における宗教教育
日本ではそれまでの国家神道に基づく絶対的な宗教教育の反省から、憲法第20条及び、教育基本法第9条で、宗教は尊重されるべきものであるが、国公立学校における宗教教育の中立性の保持、あるいは特定宗派のための国公立学校における宗派教育の禁止が定められている。従って、日本の公立学校では、哲学や歴史としては教えても宗教としては教えることはなく、これらの公的教育を受けた人々には、宗教観がなく、自らを無宗教と考えていることが多い。 私立学校においては宗教教育の自由が留保されている。教育基本法の立場は、憲法第19条の「思想及び良心の自由」、第20条の「信教の自由」の保障を教育の場で具現化しようとするものである。特にキリスト教や仏教などの宗教団体が運営する学校では、道徳科目と同じ位置づけで、必修科目として宗教に関する基礎的知識を教授しているところが多い。 これらの宗教科目を教授するには、中学校、高等学校何れも宗教の教員免許状が必須であり、修得には宗教科教育法を含む特定の必修単位を取得する必要がある。
「良心の自由」は究極的に個人の内面にかかわる要件であり、外部からの強制を加えることは許されない。その意味で「良心の自由」は「信仰の自由」に該当する観念ということもできる。「信仰の自由」の侵害者とは、国家その他の団体、個人を問わない。とくに国家は、宗教的信仰について価値判断を下すことはできないし、また判断を下してもいけない。国家は、国民の好む宗教を選択する自由を保障しなければならず、この限りで国家による宗教的中立性とその教育の中立性が要請されるのである。 歴史的には、1899年(明治32)8月3日文部省訓令第12号において、公立学校、あるいは小学校令や中学校令に基づく私立学校での宗教教育は禁止された。だが神道(しんとう)は制度的に宗教から除外されていたので、実質的には神道が国教とされ、教育と結合された。やがて国家主義体制の強化のなかで、精神主義と道義の高揚の必要から、文部省は1935年(昭和10)に学校における「宗教的情操の涵養(かんよう)」の指令を発し、学校での特定宗派に偏しない一般的・宗教的情操教育を奨励した。第二次世界大戦後は、神道は国教的性格を失い、教育から完全に払拭(ふっしょく)され、個人の「信仰の自由」と国家による宗教的中立性が憲法上確定された。
諸外国における宗教教育
宗教が教育の場においてどのように扱われるかは、国によって大きく異なる。それぞれの国情を無視した抽象的な議論を繰り返しても意味がない。宗教教育を考える上では、まず宗教がそれぞれの国でどのように位置付けられているかが大きく関係する。 国家と宗教のかかわりには、通常次の大きく4つのタイプが列挙されるのが一般的である。
A:特定の宗教を保護する国教主義{実質的国教主義を含む}の国 (イスラム国家、一部のキリスト教国家)
B:政教分離が原則の国
①宗教に対して友好的なタイプ(アメリカ、ドイツ…)
②中立ないし非友好的なタイプ(日本、韓国、フランス…)
③批判的ないし敵対的なタイプ(中国、北朝鮮…)
Aタイプでは、公立学校の教育においても国教ないしは国教的な性格の宗教について基礎的な学習(教え、儀礼等)がなされるのがふつうである。ほとんどのイスラム国では、コーランの読み方、礼拝の方法などを小学校から教えるのが当然とされている。サウジアラビアのように、小学校においては、週に数時間イスラムに関わる授業がある。その反面、国教でない宗教、公認されていない宗教に基づく教育が事実上制限されることがある。
逆にB-③のタイプでは公立、私立の学校とも宗教教育は知識教育以外は行えないことが多い。社会主義国である中国や北朝鮮のように、初等、中等教育の場では、宗教は歴史の知識の一貫に組み込まれた部分以外は一切触れられない国もある。宗教教団の存在そのものが強い制限のもとにある国では、宗教に関する教育は、むしろ反宗教的教育となることもある。
一方、B-①タイプとB-②タイプの区分は、宗教教育のあり方を議論する上では、それぞれに対応する形態を明確に提示するのが難しい。キリスト教が文明の根底にあるとされる西欧諸国でも、教育における宗教の扱いにはかなりの違いがある。アメリカは一応政教分離であるが、政教分離は"separation of church and state"というふうに「教会」と「国家」の分離として表現されている。つまり「宗教」と「国家」の分離として表現されていないことが着目される。特定の宗教団体・宗派との結びつきには神経を使っても、宗教(といっても基本的にはキリスト教を意味するが)の重要性は逆に自明の理とされている。したがって、教育と宗教は一応分離されているが、日本とはまた異なった問題が生じ得る。たとえば、一部の州で進化論の教えが聖書に反するとして禁じられるといったようなことは、日本では考えられない。フランスは、ライシテ(「世俗性」あるいは「非宗教性」といった意味)と呼ばれる政教分離の原則が二十世紀初頭に確立した。したがって教育の場でも特定の宗教について触れることを避けるが、この原則がアフリカからのムスリムの移民の増加とともに、新たな問題が生じている。一方、ドイツのように国が教会を経済面で支援し、学校における宗教教育を推進するところもある。税金の一部が教会税として用いられるのである。ルター派やカトリックが多いこの国では、これらの宗教には特別の保護がある。 また公立学校では宗教の教義に関わることは触れないようにしている国が多いが、その中でも、宗教立の学校を認め、そこで宗教儀礼や教義を教えることを認めている国もある。すでに述べたことで、日本や韓国はそうした国に含まれると考えられる。日本では、国公立の学校では宗教の教義について教えないが、宗教立の学校では大幅な自由が認められている。たとえばキリスト教系の中学校や高校では、クリスマスや復活祭の行事などが学校行事に組み込まれ、事実上全生徒が参加する。仏教系であると、成道会(十二月八日)や、盆行事、あるいは彼岸行事を組み入れ、やはり全校生徒の参加とする。 そして週一時間程度の宗教の時間が設けられており、その時間に自分たちの宗教の歴史や教えの概要について教えるというのが標準的なパターンになっている。そうした時間に授業を担当するのは、神父、シスター、牧師、僧侶などの宗教家であると同時に、教職免許をもっているという人がその類の授業を担当するということもしばしばである。 これらB-①、B-②タイプでは、公立学校の教育では宗派教育はふつう行われず、宗教教育は積極的には行われないが、宗教立の学校の宗派教育は自由であるというのがおおよその傾向といえる。ただし、宗教教育の自由さが、教育の内容、時間数、学校別の相違、生徒の側の選択などのうち、どの面において認められているかはそれぞれ異なるので、一つの尺度で自由度を測るのは困難である。B-①タイプとB-②タイプは、宗教教育に関する限り、一括して扱うのが適切である。
さらに、こうした傾向はあくまで一般的なものであり、具体的に調べてみれば、同じキリスト教圏、イスラム圏に属する国でもさまざまな対応が見られ、また同じ国でも時期によってかなりの違いが生じることもある。宗教を学校教育で扱うというのは、どの国にとってもきわめて神経を使う事柄に属するからである。近年はどの国においても異文化接触が急速に増え、多文化主義ということが大きな課題になってきている。教育の場における宗教の扱いという問題は、こうした世界的に共有されている課題と結びつけて考えていく必要がある。
*参考文献*
・平塚益徳著『学校教育と宗教』(1951・目黒書店)
・田中耕太郎著『教育基本法の理論』(1961・有斐閣)